ヴァイオリンの対向配置
モーツァルトがマンハイムを訪れた際に書いた手紙に、当時、最高のオーケストラだった同地の宮廷楽団の規模の大きさと充実ぶりを絶賛した文章が見られるのだが、その中に「第1ヴァイオリンが左(下手)、第2 Vn.が右」という配置に関しての記述がある。このヴァイオリンを指揮者の両翼に向かい合う形で置く対向配置は、その後も各地で、ほぼ基本的なフォーマットとして継承されてきた。
モーツァルトがマンハイムを訪れた際に書いた手紙に、当時、最高のオーケストラだった同地の宮廷楽団の規模の大きさと充実ぶりを絶賛した文章が見られるのだが、その中に「第1ヴァイオリンが左(下手)、第2 Vn.が右」という配置に関しての記述がある。このヴァイオリンを指揮者の両翼に向かい合う形で置く対向配置は、その後も各地で、ほぼ基本的なフォーマットとして継承されてきた。
20世紀初頭の西欧音楽界で、時代を切り拓いていったのがディアギレフ率いるロシア・バレエ団。その中核となったのが、まだ無名だったストラヴィンスキーによる〈火の鳥〉〈ペトルーシュカ〉〈春の祭典〉。この3大バレエは、その質においても、破壊的なエネルギーと影響力の凄まじさにおいても、19世紀後半にワーグナーが〈トリスタンとイゾルデ〉で成し遂げたのに比肩すべき核爆弾的な役割を果たしたのであった。
コーカサスとはカスピ海と黒海とに挟まれた地域一帯のことを指す。コーカサスは英語読みであり、19世紀以降この地域を版図に納めたロシアの呼び名ではカフカースとなる。イッポリトフ=イワーノフはロシア人であり、それを考えると特に英語の呼び名を使う必要もないので、曲名も《カフカースの風景》とした方が良いのかもしれないが、この曲の原題はフランス語で表記されており、フランス語でのカフカースの表記は英語と同じく ’caucasus’ である。恐らく、この曲が《コーカサスの風景》と呼ばれるのもそれが関係しているのであろうか。今回は通例に従って曲名は《コーカサスの風景》とした。
ベートーヴェン自身が標題をつけた交響曲は第3番〈エロイカ=英雄〉と第6番〈田園〉の2曲。〈運命〉というのは、ベートーヴェンが冒頭部①について「運命は、こう扉を叩く」と語った、と弟子のシンドラーが伝えたことに由来する俗称なのだが、これに関して、欧米と日本では扱いが正反対なことは良く知られている。一番はっきりしているのがCD等のジャケットで、邦盤では〈運命〉という表記が既定事実化しているのに対し、外盤で「Schicksal(独)」や「Fate(英)」とクレジットされている例は皆無に近い。但し、解説には使われているし、実際、ロマン派以降の作曲家達は「運命」という意味を含めて、この曲の冒頭主題を様々な形で引用しているのである。
〈死と変容〉という標題からは、晩年の作品と考えられがちだが、実は全く反対で、25歳(1889年)の時の作品である。表のように、一連の交響詩は初期に集中して書かれているため、シュトラウスの生涯は、1898年(34歳)以前の“交響詩の時代”と、それ以降の“歌劇の時代”の2つに、大きく分けることができる。ただし、それとても、表現主義的な作風が、その時点でがらりと変わったわけではなく、「音による表現に言葉が加えられただけ」と言えないこともない。
ロシア革命勃発後、レーニン率いるボルシェビキ政権を嫌って多数の文化人・芸術家がロシアから亡命したが、ラフマニノフもその中の一人であった。亡命後、ラフマニノフはアメリカ合衆国に居を構え、まず生活の糧を得るためにピアニストとして活動を展開する。ラフマニノフは優れたピアニストであり(その演奏は録音も多く残っていて、幸いにもラフマニノフの演奏様式がどんなものであったか後世の私たちは耳で確認することが出来る)、ラフマニノフのピアノ演奏は非常に高い人気を獲得したのだが、その反面、演奏家として多忙を極めたために作曲家としての活動は不十分なものとなってしまった。
チャイコフスキーの交響曲は〈4番〉以降の3曲の人気が高く、CD等でも〈4・5・6番〉を纏めて「3大交響曲」として売られていることが多い。これは演奏する側の事情と繋がっているわけで、〈3番〉より前の3曲を、〈4番〉以降と変わらないくらい積極的に振ろうという指揮者は激減してしまう。それに準じる多楽章形式の管弦楽曲として『組曲』を4曲残しているが、番外的な標題付き交響曲〈マンフレッド〉同様、その演奏頻度は更に少ない。唯一の例外は弦楽のための〈セレナード〉で、これは“弦楽合奏のための交響曲”といっても差し支えないほど充実した内容を備えているせいもあって人気が高く、《ワルツ》は単独でもBGM的に演奏されることが多い。
ドミトリー・ドミトリエヴィチ・ショスタコーヴィチ、57歳の時の作品。1963年作曲。ショスタコーヴィチは1975年に死去するので、既に晩年に入りかけた頃の作品であるといえる。その作曲家としてのキャリアにおいて、幾度と無く政治からの圧力を受け続け何度も苦汁を飲んだショスタコーヴィチであったが、この頃になると社会も一応の安定を見せたこともあり、西側にまで名声が届く大作曲家としての地位が確立し、生活もやっと平穏なものとなった。
現在、ベルリオーズの作品の中で最も良く知られている《幻想交響曲》だが、それは彼の作品の中では最も初期の部類に入る。1830年の春頃の完成だが、この時はまだ26歳という若さであった。完成後、同年の12月にパリにおいて初演が行われ、ベルリオーズは一夜にして話題の人・時の人となる。それは言うまでもなく《幻想交響曲》のセンセーショナルな成功の故であった。多種多様な楽器による多彩な響き、作曲家自身によって付けられた標題とそれを解説したプログラム。ハイドンの交響曲に馴れ親しみ、ベートーヴェンの交響曲でさえ最新の音楽であったこの時代、《幻想交響曲》は極めてショッキングなものであった。
ラフマニノフ交響曲第3番の中間部。ここでフーガ(曲の一部分でフーガの要素を使った音楽が展開されるので、正式にはフガート)が展開されるのだが、なぜここにラフマニノフはフーガを書いたのだろうか。無論、音楽的必然性だけがあって特に意味など無いのかもしれないが、ここで少々空想を働かせてみる。
全2幕からなるこのコメディ・バレエは、スペイン南部のアンダルシアを舞台としたアラルコン(1833~91)の同名の小説によっており、その原作は木下順二翻案の戯曲〈赤い陣羽織〉としても知られている。
通りすがりに、粉屋の女房を見染めた代官が、横恋慕を押し通そうとしたあげく、しっかり者の女房と粉屋に巧みにかわされて大恥をかくという反権力、勧善懲悪の痛快な物語は、ファリャの民俗色豊かな音楽と、華麗なオーケストレーションによって、耳だけでも充分に楽しめるものとなっており、演奏会形式でもしばしば取りあげられる。題名の〈三角帽子〉は、権威の象徴として代官が冠っている三つ角のある帽子のこと。