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千葉フィル史 第1話

今を去ること13年前。時は1985年の丑年。場所は千葉県千葉市内にある某国立大学。 つまりは千葉大学、の管弦楽団でひそかに事は運んでいた。

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A.ドヴォルジャーク(1841~1904) 交響曲第7番ニ短調 Op.70 B141

1884~85年(43~44歳)に作曲。85年4月22日、ドヴォルジャーク指揮によるロンドン・フィルハーモニー協会で初演。初演時から大成功で、その評判から同年中に当時最も名声の高かった大指揮者ハンス・リヒターがオーストリアで、ハンス・フォン・ビューローがドイツでの初演を指揮し、楽譜も同年中に大出版者のジムロックから出版された。つまりドヴォルジャークの交響曲作曲家としての評価を確定させた名曲ということになる。なお当時は〈2番〉として出版され、生前はその番号付けが定着していたが、1955年に、チェコで未出版の交響曲を加えた全交響曲の番号付けが見直された際、〈7番〉に確定し、現在に至っている。

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芥川也寸志 (1925~1989) 交響三章

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〈交響三章〉は、芥川が東京音楽学校を卒業した翌年、1948年に作曲した作品である。1948年といえば、まだ戦後間もない頃、芥川自身によれば、学校に通うよりも、ヴァイオリンの流しで生活の糧を稼いでいた時代だ。
芥川也寸志は、文豪 芥川龍之介の三男として生まれた。しかし、龍之介は、也寸志が2歳のときに自殺しており、也寸志自身に父の記憶はない。彼にとっての父は、尊敬する存在でありながらも、書斎に掛けられた怖い顔の写真であり、その書斎に置かれていた手回し式の蓄音機であった。

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グスタフ・マーラー (1860~1911)交響曲第3番 ニ短調

mahler-3-thumbマーラーの交響曲は自然描写の宝庫。例えば鳥の囀りなら、殆どの作品で聴くことができるが、 この〈3番〉がその頂点に立つのは明らかだ。特に、前半の3楽章は、マーラー版の『アルプス交響曲』と言っても過言ではない。それは、以下のような成立事情が深く関わっている。

1891年からハンブルク市立歌劇場の指揮者を務めていたマーラーは、93年から歌劇場がシーズン・オフとなる夏の間を、アルプスの避暑地、アッター湖畔のシュタインバッハで過ごすようになる。旅館に部屋を借り、妹や女友達N.B.レヒナーに雑事を任せて作曲に専念する“夏休み作曲家、マーラー”の誕生だ。

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セルゲイ・プロコフィエフ(1891~1953) 《スキタイ組曲》

プロコフィエフとストラヴィンスキー、そしてディアギレフ

skythian-thumbプロコフィエフは1891年生まれなので、1882年に生まれたストラヴィンスキーのだいたい一世代下にあたる。プロコフィエフは《春の祭典》 (1913)でストラヴィンスキーの前衛的な音楽がセンセーショナルな成功を収めたのを目の当たりにして、これだ!と思ったのだろうか、ストラヴィンスキーの破壊的・暴力的な面をさらに増幅させた音楽で売り込みを図る。誰に?《春の祭典》で、センセーショナルな音楽と踊りでパリを喧噪の渦に巻き込んだバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)。そのバレエ・リュスを率いるロシア貴族の男、セルゲイ・ディアギレフ。このディアギレフこそ、プロコフィエフが売り込みを図ったその相手であった。いや、ディアギレフは単なる窓口でしかなかったのかもしれない。プロコフィエフが本当に狙っていたのは、西側世界での成功だった。

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レナード・バーンスタイン(1918~1990)《管弦楽のためのディヴェルティメント》

千葉フィルの選曲事情と今回のプログラム

bernstein-div-imageアマオケの選曲は、基本的に、その楽団の事情に根ざしたものになる。例えば、打楽器は全てエキストラというようなオケがあると思えば、管打が中心で、弦は半数以上が賛助というオケも少なくない。千葉フィルの場合は創立時から中心的な存在の荒木君が優れた打楽器奏者であることもあって、パーカッションが強力。そのため、選曲会議では打楽器に対する配慮は必須となる。例えばモーツァルトやハイドンの交響曲だと、〈軍隊〉以外はティンパニだけだし、メンデルスゾーンの〈イタリア〉〈スコットランド〉あたりも同様の理由から外さざるを得ない。アンケートで古典派の名曲に対する要望があっても、あまりお応えできないのは、こうした事情が絡んでいる。

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アルテュール・オネゲル (1892~1955) 交響曲第3番《典礼風》

オネゲルの二重性

オネゲルはフランス近代を代表する作曲家の一人として知られているが、オネゲルは自らのことを100パーセントのフランス人だとは考えていなかった。生まれはフランスの地方都市ル・アーブルであるが、両親はスイス人、プロテスタントの家庭だった(フランスはその大部分をカトリック教徒が占める)。その為、フランスで生活しフランスの学校に通ったにも関わらず、オネゲルはフランスのものとは異なる「スイス的感性」を自らの中に意識するようになる。結局、オネゲルはその人生の殆どをフランスで過ごすのたが、生涯、その「スイス的感性」を捨て去ることはなかった。しかしもちろん、生活の場としてのフランスの影響も しっかりと受けている。そうした、いわばアイデンティティの二重性をオネゲルは自覚していたのだが、それはオネゲルの音楽にも決して無縁では無かった。

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ヴィスコンティとマーラー

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この春、マーラーを主人公として描いた映画が公開された(『マーラー 君に捧げるアダージョ』 パーシー・アドロン&フェリックス・アドロン監督、2010年作品。)私は未見だが、見た人の評判を聞くと、概ね良い作品のようである。この映画の音楽は、マーラーの交響曲第10番の第1楽章が主に使われたようだが、映画に使われたマーラーの音楽といえば、まず真っ先に名前が出るのはこの作品であろう。『ベニスに死す』、ルキノ・ヴィスコンティ監督、1971年作品。退廃美、醜さと背中合せの美しさを圧倒的に描いたこの作品では、劇中音楽としてマーラーの交響曲第5番第4楽章が主に使われている。それはまさに、もう一つの主人公ともいえる程の強烈な印象を見る人に残すものだが、映画『ベニスに死す』では、他にもマーラーの音楽が使われている。5番4楽章の存在感(と使用頻度)に隠れがちだが、交響曲第3番の4楽章もまた、ヴィスコンティは、映画『ベニスに死す』に使っている。

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アントン・ブルックナー (1824~1896) 交響曲第7番 ホ長調

師と仰いだワーグナーとの出逢いと死

bruckner-7-thumbブルックナーが構造面から交響曲の手本としたのが、ベートーヴェンの〈エロイカ〉と〈第9 〉。楽章と調性から見た場合、〈英雄=エロイカ〉は[第1楽章・変ホ長調-2.ハ短調-3.変ホ長調-4.変ホ長調]。これは同じ変ホ長調で書かれた〈4番・ロマンティック〉の原型となった。第2楽章が同主調の短調に暗転した《葬送風の曲》、第3楽章《スケルツォ》がホルン・セクションを主役とする《狩猟の音楽》という特徴も継承されている。

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ジョアキーノ・ロッシーニ(1792~1868) 歌劇《泥棒かささぎ》序曲

la-gazza-ladra-thumbロッシーニは、クラシック音楽の名だたる作曲家の中では、最も人生を謳歌した人かもしれません。1792年、ロッシーニは音楽家の両親のもとで生まれました。10代の終わり頃には作曲したオペラが上演されるようになり、20歳になる頃にはヒット作が誕生。その後はオペラを精力的に書き続け、その作品はイタリアのみならずウィーン、パリといったヨーロッパの一大音楽消費地でも喝采を浴びます。その人気は晩年のベートーヴェンが嫉妬し、若きワーグナーが目標としたぐらいのものでした。

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グスタフ・マーラー(1860~1911)交響曲第9番

失われたユートピアを求めて

20世紀を代表する哲学者・社会学者であるテオドール・アドルノは、また同時に、ベルクに師事して作曲を行うなど、音楽に対しての深い造詣を持っていた人物だった。そのアドルノが1960年に発表した著書『マーラー 音楽観想学』は、難解な内容にも関わらず、折からの「マーラー・ルネサンス」の中で大きな影響を持った書物となった。その中でアドルノはマーラーの音楽に対し、このように述べている箇所がある。

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