アルテュール・オネゲル (1892~1955) 交響曲第3番《典礼風》

オネゲルの二重性

オネゲルはフランス近代を代表する作曲家の一人として知られているが、オネゲルは自らのことを100パーセントのフランス人だとは考えていなかった。生まれはフランスの地方都市ル・アーブルであるが、両親はスイス人、プロテスタントの家庭だった(フランスはその大部分をカトリック教徒が占める)。その為、フランスで生活しフランスの学校に通ったにも関わらず、オネゲルはフランスのものとは異なる「スイス的感性」を自らの中に意識するようになる。結局、オネゲルはその人生の殆どをフランスで過ごすのたが、生涯、その「スイス的感性」を捨て去ることはなかった。しかしもちろん、生活の場としてのフランスの影響も しっかりと受けている。そうした、いわばアイデンティティの二重性をオネゲルは自覚していたのだが、それはオネゲルの音楽にも決して無縁では無かった。

19歳の時にパリ音楽院に入学。ここでオネゲルは、パリ音楽院の同級生で、一生の親友となったダリウス・ミヨーと出会う。オネゲルは、ミヨーや他の同世代 の作曲家と一緒に「フランス6人組」と呼ばれた作曲家グループに属していたが、ワーグナーを激しく嫌った「6人組」の他のメンバーとは異なり、ワーグナー への敬意を隠すことが無かった。ナショナリズムが吹き荒れ反ドイツ感情が高まる当時のフランスにおいて、ドイツ音楽の象徴たるワーグナーに対して否定的な態度をとらないというのは、オネゲルの中にある二重性の故かもしれない。

1923年、蒸気機関車の名前を題名に付けたオーケストラ曲《パシフィック231》が大成功を納め、オネゲルは一躍注目を浴びる存在となった。それからは バレエ音楽や室内楽から映画音楽、《火刑台のジャンヌ・ダルク》(1935年)といった大規模な声楽入りの作品など、様々なジャンルの多くの作品によって、オネゲルはフランス音楽界を牽引する存在となっていく。

第二次世界大戦とオネゲル

実は、オネゲルと第二次世界大戦との関わりは、少し微妙で危うく、かつ非常に興味深いものである。第二次世界大戦の初期において、フランスはナチス・ドイツ の電撃戦に屈服し、フランスは連合国がドイツ軍をフランスから追い出すまでドイツの傀儡政権であるヴィシー政権が統治を行うことになるのだが、このヴィ シー政権下のフランスにおいて、もっとも優遇された作曲家といえるのが、実はオネゲルであった。演奏会に取り上げられる回数が多く、複数回、「オネゲル週間」と名付けられた音楽祭が催される程であった。このオネゲルの厚遇は、オネゲルがスイス国籍を持っていたことによって可能となったものでもあった。フランスでもドイツでもない、いわば、第三者的な立場を保持し得たオネゲル。しかし、時としてオネゲルは「フランス人」となる。ヴィシー政権は「救国の英雄」 ジャンヌ・ダルクに纏わる記憶を政治的に利用しようとしたが、そんなヴィシー政権にとって、《火刑台のジャンヌ・ダルク》と「フランス人でもありスイス人でもある」オネゲルの存在は、非常に都合の良いものであった。しかし、オネゲルも単純ではない。オネゲルは対独レジスタンス活動にも密かに協力していたという。オネゲルの二重性。オネゲルもまた、複雑な芸術家であり複雑な現代人であった。

《典礼風交響曲》

《典礼風交響曲》はオネゲルの三番目の交響曲であり、交響曲第三番《典礼風》と呼ばれることが多いが、自筆譜に付けられた題名を見ると "Symphonie Liturgique" とあり、オネゲル自身の発言を読む限りでは、オネゲルも普段からこの作品をこのように呼んでいるようである。ここではオネゲル自身の呼び名に倣って《典礼風交響曲》と表記することにする。

《典礼風交響曲》は第二次世界大戦の終戦直後の1945年、スイスのプロ・ヘルヴェティア文化財団の委託を受け作曲が開始された。三楽章形式の交響曲で、 それぞれの楽章にはオネゲル自身による題名が付けられている。典礼という言葉はキリスト教の儀礼のことを指しており、また、それぞれの楽章に付けられた名前は、詩篇やミサ曲といったキリスト教の儀礼に伴い歌われる曲から取られている。しかし、その音楽世界はキリスト教のみに留まるものでは無く、普遍的な広がりを持つものである。

第一楽章 「怒りの日」

「怒りの日」("Dies irae")とはキリスト教の終末論の一つであり、また、ミサ曲の一つ。神の裁きによる最後の審判を指す。オネゲルは、「怒りの日」という世界観を借りて、人間の悪と恐怖を表現しようとした。オネゲル自身は、この《典礼風交響曲》全体のテーマについては、現代人の苦悩と幸福といった言葉で表現しており、 特に戦争というテーマについて特別に言及することはしていない。しかし、つい先程まで行われ、さらに戦後になって新しい事実が次々と明らかになる人類史上最悪の愚行の数々。恐らく、こういったものは作曲家や受け手の中に強くイメージされていたことであろう。

不気味なものが静かに忍び寄り、しかし瞬く間に巨大なものとなり人々を覆い尽くそうとする。低音楽器による威圧的な音楽。この作品で特徴的な音響を与える のはオーケストラの一つのパートとして使用されるピアノの音。強く打ち鳴らされるピアノの低い音は、主にコントラバスやチューバといった低音楽器と共に使 われ、輪郭が曖昧に成りがちなこれらの楽器の音に明確な隈取りを与えることに成功している。こうした手法は、同時代のショスタコーヴィチやプロコフィエフが好んで使ったものでもあった。圧倒的な暴力が吹き荒れた後、音楽は治まり静かにこの楽章は終わる。

第二楽章 「深き淵より」

「深き淵より」("De profundis clamavi")は詩篇(旧約聖書にある神を讃える詩)からの一節。前の楽章の激しさとは一変して、静かな、深い瞑想的な音楽。オネゲルはこの楽章で、「充実した、豊かな、一気に流れてゆく旋律の線を求めた」と語っている。

美しい瞑想の間に、途中、低音楽器による荒々しい音楽が姿を現す。しかしそれは、深い祈りの音楽と対立することなく、次第に一本の線となって溶け合ってい く。音楽は次第に一本のフルートに収束していく。これはオネゲルによって「鳥の主題」と名付けられたもので、第一楽章の最後ではトロンボーンとチューバに よって荒々しい姿で登場している。それがここでは静かな、清らかな姿によって現れ出たのであるが、それは瞬く間に消え失せる。

第三楽章 「我らに平和を・・・」

「我らに平和を・・・」("Dona nobis pacem...")は不気味な行進曲から始まる。これはラテン語の成句で、古来から人々が願って止まなかったもの。バッハは《ミサ曲ロ短調》(BWV232)の終曲にこの言葉を使った。そしてオネゲルも、今またこの言葉を使う。

行進曲は無機的に進行する。オネゲルによれば、ここには科学技術の発達によってもたらされた災厄への風刺が潜んでいる。二度の大戦では、科学技術の成果を手にした人類が、それまでに無い規模でお互いを殺戮しあった。果たしてそれは人間に制御出来るものなのか?行進曲は力を増し、もはや誰にも制御することは できず、暴力的な破局を迎える。破壊の後の静けさ。ヴァイオリンとチェロのソロによる祈りの音楽。平和が訪れたのか?最後に現れるピッコロ。あの、鳥のテーマだ。廃墟を飛び交う鳥の声。深い余韻と静けさの中、消え入るように終結を迎える。

世界大戦の災厄を生み出した科学技術は、牙を抜かれ、私たちの生活を豊かにした。しかし、果たしてそれらは本当に私たちに制御出来るものなのだろうか。オネゲルの経験した災厄は姿を変え、今再び、私たちの目の前にある。オネゲルの発した問いは、私の心に刺さったまま抜けることはない。オネゲルが聞いた鳥の歌を、私たちも耳にすることがあるのだろうか。

(なかたれな)

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