チャイコフスキー (1840~1893) 交響曲第6番 《悲愴》

tsch-photo-thumb西欧諸国から音楽と音楽家を輸入し、「お雇外国人」の手によって音楽文化を形成したロシア。いわば音楽の発展途上国だったロシアだが、そのロシアが音楽先進国の仲間入りをするためにどうしても必要だったもの、それはロシア人の手による本格的な交響曲だった。多くのロシア人作曲家がその課題にチャレンジしたが、19世紀後半に至って先駆者を遥かに超える高いレベルでその課題をクリアする作曲家が現れた。それがチャイコフスキーである。そのチャイコフスキー最後の交響曲が、本日お送りする交響曲第6番《悲愴》である。

チャイコフスキーの場合、全部で6曲の交響曲のうち後ろの3曲の演奏頻度が前の3曲に比べて極めて高く、「三大交響曲」と称されることも多い。が、作曲年度を見てみると第4番が1877年、5番が1888年で6番が1893年と、4番と5番の間は10年以上も空いているのだ。作曲様式の面で考えると、4番までが初期で5番と6番を後期と考える方が良い、といのは以前千葉フィルで5番を演奏した際の金子氏の曲目解説の通り。実際、チャイコフスキーの交響曲第5番は美しい旋律とは裏腹に綿密な技法と厳格な構成で貫かれた作品で、最もベートーヴェン的な交響曲であるといえる。「タタタタン」という「運命主題」を曲の中核に据え、ベートーヴェンがまさにその交響曲第5番で確立した「苦悩から歓喜へ」という交響曲の思想性と物語性を踏襲した作品であり、作品の充実度からいっても、「ベートーヴェン以降、交響曲はいかにあるべきか」という、ロシアのみならず全ユーロッパの作曲家が直面した問いに対してのロシアからの回答としては、模範的な回答といえる交響曲だった。

そして、チャイコフスキーはこの第5番で課題を果たしたと思ったのか、次の交響曲では非常に自由な構成を展開し、さらに「苦悩から歓喜へ」という交響曲のテーゼをも完全に葬り去る。それが交響曲第6番《悲愴》交響曲であった。副題は作曲者自身によるもの。1893年作曲。初演は1893年10月、チャイコフスキー自身の指揮によって行われた。その九日後、チャイコフスキーは突如この世を去る。悲劇的な情感を湛えたまま静かに息絶えるように消え去る終結部は、当時としてはまったく異例のもので、実際、初演では当惑の声も上がったという。だが《悲愴》初演直後にチャイコフスキーが急死したこともあり、大作曲家の遺作として非常に急速に高い評価を得るようになる。チャイコフスキー突然の死と相まってどこか神秘化された物語も、当時から流布したらしい。チャイコフスキーが自殺したとのではという噂も当時からあったようだ。

「苦悩から歓喜へ」という定型に当て嵌まらないフィナーレは、既にブラームスが1885年初演の交響曲第4番で示してはいたのだが、チャイコフスキーはこの《悲愴》でそのブラームスの方向性をさらに大胆に押し進める。この方向性をこの時代で究極的に展開したのが、マーラーの交響曲第6番《悲劇的》。時は19世紀末から20世紀初頭。フランス革命に端を発した自由と進歩への期待は既に遥か昔のものとなり、時代と人々は軋みをあげる。そんな中での《悲愴》交響曲。それはチャイコフスキーの苦しみであり、時代の苦しみであった。

(中田麗奈)

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