大戦後の1960~61年に作曲、61年にムラヴィンスキー指揮のレニングラード・フィルによって初演。レーニンに捧げる曲として作曲されたため、革命の年〈1917年〉という標題が冠され、各楽章に具体的な標題が付けられている。ショスタコーヴィチの交響曲の中でも、革命を歴史的な史実として描いた点は重要なポイントだ。
曲目解説
演奏会プログラムの曲目解説からの抜粋です。
プロコフィエフ 交響曲第7番 嬰ハ短調 作品131
20世紀の作曲家は、当然のように新しい技法を開拓しようと競い合っていたが、ソヴィエト国内に留まった作曲家達は、党が「社会主義リアリズム」を掲げて、前衛的な傾向を批判したため、平易で親しみ易い作風に転じざるを得なくなる。
プロコフィエフは1918年(27歳)に交響曲〈1番・古典〉を初演した後、革命を逃れて日本経由でアメリカに渡ったものの、鬼才として畏れられたデビュー時の牙は次第に円くなり、1934年(43歳)にはソ連に帰国。その後に作曲されたバレエ〈ロミオとジュリエット〉〈シンデレラ〉、歌劇〈戦争と平和〉等は、意図的にロマンティックな解り易い語法に転じたせいもあって、国内外で評価を高めることになった。
R.シュトラウス バレエ〈泡立ちクリーム〉 作品70(台本:R.シュトラウス)
1922年(58歳)この作品を作曲した当時のR.シュトラウスは、交響詩や楽劇の主要作品で成功をおさめ、ドイツ・オーストリア系作曲界の頂点に立っていたが、当時のヨーロッパは1918年11月に終戦した第1次大戦の荒廃の直後。舞台作品も贖罪など真摯なテーマが求められていたのだがシュトラウスはそれに反発。「時代の悲劇にばかり拘るこうした風潮には我慢ならん。私は人々を喜ばせたいのだ」と言って、お菓子など全く見当たらない時代だったにもかかわらず、人々が以前と変わらない日常生活を送っているかのように、この作品を書き上げたのだった。
チャイコフスキー バレエ〈くるみ割り人形〉組曲 作品71a
今回は同じバレエ2曲でも、片方は組曲で、チャイコフスキーを代表する人気作。一方は全曲で、しかも殆ど演奏されない“幻の大作”。そのため〈くるみ割り〉が軽い書き方になってしまったのを、ご了承頂きたい。
3大バレエの中では最後に位置し、交響曲第6番〈悲愴〉の前年にあたる1892年(52歳)に完成・初演されている。帝室マリインスキー劇場からの依頼は、ドイツの作家E.T.A.ホフマンによる童話「くるみ割り人形と二十日ねずみの物語」によるバレエ。これを〈椿姫〉の作者デュマ・フィスがフランス語に翻案脚色し、首席振付師プティパが台本化した。
シベリウス 交響曲第1番 ホ短調 作品39
合唱入りの大作〈クレルヴォ〉の後も、標題付きの交響曲を構想していたシベリウスは、1894・97年にヘルシンキで既に演奏されていたチャイコフスキーの〈悲愴〉を知り、滞在中の1898年にベルリンで聴いた〈幻想交響曲〉に強い刺激を受けた。同年4月に新たな交響曲に着手し、翌99年の初めに完成。同年4月26日、ヘルシンキで自身の指揮で初演した。成功だったが、細部を手直しし現行版となった。
レスピーギ 交響的印象〈教会のステンドグラス〉
レスピーギに教会旋法を使用した曲が多いのは、妻のエルザがグレゴリオ聖歌の研究者だったことが大きい。〈古代舞曲とアリア〉や〈ローマ3部作〉だけではなく、〈グレゴリアン・コンチェルト〉と題したヴァイオリン協奏曲も書いているが、この〈教会のステンドグラス〉も、そうした作品の一つだ。