ブラームスの「交響曲第5番」?

schoenberg 1948ナチス政権の成立によってドイツを追われることとなったシェーンベルクは、パリを経てアメリカに亡命する。その地でシェーンベルクはオーケストラ作品への編曲を幾つか手がけるが、その一曲にブラームスが若かりし頃に書いたピアノ四重奏曲もあった。シェーンベルクは出来上がったこの編曲に大変満足し、聴衆からも高い評価も獲得する。中には「ブラームスの交響曲第5番」というものまであった。しかし、実際のこの曲はブラームスが決して自らの交響曲に使わなかった楽器や特殊奏法のオンパレードであり、そして何より、ジプシー音楽的な情熱をそのまま表現した音楽それ自体、ブラームスが決して交響曲の題材に選ばなかったものである。そのことを考えると、この編曲をブラームスの交響曲第5番と呼ぶことは、やはりあまり適当なこととは言えない。しかし、一つ視点を変えてみると、また違った様相が見えてくる時がある。

シェーンベルクはウィーンで正統派ユダヤ教徒の家庭に生まれた。しかし宗教的には自由な環境で育つ。1898年、24歳の時にプロテスタントに改宗する。同化ユダヤ人となってウィーンでの社会的地位を改善するためであったが、ウィーンで勢力の強いカトリックは選択しなかった。その後、シェーンベルクはウィーンやドイツ・ベルリンで活動を続ける。しかしユダヤ的なものへのこだわりはシェーンベルクの中でくすぶり続け、「ドイツ人」を追われた1933年、亡命の経由地パリでユダヤ教に改宗する。

しかし、ドイツ時代のシェーンベルクは、自分を偉大なドイツ音楽の継承者だと信じて疑わなかった。このことは次の言葉からも推し量る事ができよう。「ドイツ民族の魂から生まれた、外国の影響を全く受けていない私の音楽は、ラテンやスラヴ民族の覇権の期待に最も効果的に対抗し得る芸術の実例である。」(1931年、エッセイ「国民音楽」より。)偉大なドイツ音楽の伝統を受け継いだその自分を放り出したナチスに対して、シェーンベルクは憤懣やるかたないことだったろう。アメリカの地で、シェーンベルクは快適な環境を容易には見つける事ができずにいた。ましてや、ヨーロッパで苦労の末獲得した作曲家としての名声や尊敬など、ここ新世界アメリカでは御伽噺でしかなかい。そんな中での「ブラームスの交響曲第5番」という言葉は、例えそれが編曲に対しての言葉であっとしても(アメリカの聴衆にはこの作品のメロディがブラームスのものだと気付かない者もいたが)、シェーンベルクは決して悪い気はしなかったであろう。その昔、ブラームスの交響曲第1番は初演された当時「ベートーヴェンの交響曲第10番」と呼ばれた。偉大なベートーヴェンの伝統を受け継ぐもの、という意味を込めてである。これを踏まえると、シェーンベルクはここにおいて、ベートーヴェン-ブラームスと続くドイツ音楽の系譜の中に位置付けられる存在となったのである。そしてこの編曲以降、シェーンベルクの作品には《コル・ニドレ》や《ワルシャワの生き残り》《現代詩編》など、ユダヤ的な作品がより目立った位置を占めるようになる。このブラームスのピアノ四重奏曲の編曲は、シェーンベルクのドイツ的なものからユダヤ的なものへの転回点の時期に位置する作品であるといえるかもしれない。

(なかたれな)

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