1884~85年(43~44歳)に作曲。85年4月22日、ドヴォルジャーク指揮によるロンドン・フィルハーモニー協会で初演。初演時から大成功で、その評判から同年中に当時最も名声の高かった大指揮者ハンス・リヒターがオーストリアで、ハンス・フォン・ビューローがドイツでの初演を指揮し、楽譜も同年中に大出版者のジムロックから出版された。つまりドヴォルジャークの交響曲作曲家としての評価を確定させた名曲ということになる。なお当時は〈2番〉として出版され、生前はその番号付けが定着していたが、1955年に、チェコで未出版の交響曲を加えた全交響曲の番号付けが見直された際、〈7番〉に確定し、現在に至っている。
チェコ独立の象徴としてのヤン・フス
〈7番〉で何が、交響曲としての全楽章を統一しているかを説明するのは難しいが、一つはチェコの歴史を回想し、ヤン・フスの悲劇を織り込もうとしていることであろう。
ヤン・フス(1369~1415年)は、ボヘミア出身の宗教思想家、宗教改革者で、その支持者はフス派として知られる。カトリック教会の腐敗、即ち、免罪符、魔女狩り、宗教裁判(異端審問)が暗黒の中世をもたらし、それに抗議する(プロテストする)人達=プロテスタントによって宗教改革が起こった。チェコの場合、その先頭に立って、教会の腐敗に抗議したのがフスだった。ドイツのルター(1483~1546)よりも、100年以上も前のことである。
フスが登場する直前のチェコではドイツ系のルクセンブルク家がボヘミア王を世襲するようになり、ドイツ化が進んだ。1348年にプラハ・カレル大学が創立されプラハは当時のヨーロッパ文化の中心となったが、15世紀に入ると、カトリック教会が封建貴族と癒着し市民生活を圧迫するようになる。その当時、カレル大学の総長となったフスは、教会改革を断行。教会を牛耳っていたドイツ人を追放、教会世俗権力を否定した。後のルターと同じく、フスもカトリック教会の欺瞞を暴くため、聖書のチェコ語への翻訳を行なっている。こうした行状が、ローマ教皇の逆鱗にふれ、フスとプラハ市は破門され、1414年の宗教裁判でフスは異端として火刑に処せられた。
ここで重要なのは、以上のように当時のチェコがドイツ系の支配下にあり、その後楯にカトリックのローマ教皇があったことだ。つまり、フスの場合、宗教改革は外国支配への反抗と直結し、民俗独立の狼煙となったのである。フスの教義はボヘミア人の広範な支持を得ていたため1419年にはフス戦争が勃発。ボヘミアにおけるフス派は穏健派と急進派(ターボル派)に分かれて対外戦争と内部抗争を続けたが、1436年にイーフラヴァ協約が締結され、フス戦争は終結した。このフス戦争で、一時的に独立を勝ち取ったかに見えたチェコだったが、この後はカトリックの巻き返しが成功し、ハプスブルク家が統治することになる。こうした顛末はスメタナの〈我が祖国〉にも関係してくるので、ご存じの方も多いだろう。
フスは処刑される直前に「異端であることを認めれば命は助ける」という要請を拒否して処刑されたが、最期の言葉は「真実は勝つ」だったとされる。それは外国支配の続いたチェコ人にとって、民俗独立の悲願を象徴する言葉として受け継がれ、現在のチェコでも国の標語なっている。
ドヴォルジャークは、1882~85年にかけて、愛国的な作品を書いているが、83年に作曲された序曲〈フス教徒〉では、それが最も直接的に表わされており、この〈7番〉では、そこで使われた主題が引用されている。
実生活を襲った悲劇の投影
この曲の全体が悲劇的な色調で覆われているのは、以上のように先ずはチェコの歴史とフスに関連づけて考えられるのだが、歴史上の英雄の悲劇と民俗的な悲願というスタンスだけでは説明できない痛切な嘆きが感じられるのである。
それは、当時のドヴォルジャークをたて続けに襲った悲劇だ。1875年9月に長女を亡くしたことから〈スターバト・マーテル(悲しみの聖母)〉の作曲に取りかかったところ、77年に、今度は次女と長男を失う。77年11月に完成した〈スターバト・マーテル〉に、こうした個人的な悲嘆が反映されているのは確かだ。しかし、悲劇は、それだけに留まらず、82年には最愛の母が世を去る。
もう一つは、チェコの音楽界を牽引してきた巨星スメタナ(1824~1884)の死だ。スメタナは若い頃に得た病から74年に聴覚を失うが、 80年に畢生の大作〈わが祖国〉を完成する。しかし84年3月、病は脳障害をもたらし、翌月にプラハの精神病院へ収容され、1月後に生涯を終えた。
スメタナの治療状況は、ドヴォルジャークを含めた音楽仲間に逐一報告された。
「一番むごく感ぜられたのは、話が彼の幻覚に及んだ時だった。幻覚の中で、スメタナの意識の中で、彼を苦しめ、まだ精神力が十分あった時隠そうとしていたすべてが、明るみに出た」。幻覚は、さらに進み「番小屋の入口に、彼を訪ねてきれいに着飾った男女が立っていると思い込んだ。彼はこの幻の人たちと話し、よく訪ねてくれたと礼と言い、立派な服をほめた」。
介護人スルプは、更に、以下のように伝えている。
「プラハの病院に来てからは、貧乏神が彼を悩ましている。お金がなく、家族を養うびた一文もなく怯えている乞食だ、という妄想。ここまで追いつめられようとは!わずかな金を、飢えないよう小さな財布を恵んでくれと、熱に浮かされた目付で頼み込むのです」
話しているスルプの頬に涙が流れ(ドヴォルジャークを含めた)皆は、心を揺さぶられている様を他の者に見られまいと、棚の方を向く。
「苦痛をもたらす妄想を追い払ってやろうと、スルプは玩具のお金の入った財布を買い、この"ダカット"をスメタナにやった。彼は静かになり、この宝を枕の下に隠した……」[ブリアン著「ドヴォルジャークの生涯」関根日出男訳・新時代社、より抄訳]
スメタナは1884年5月12日に世を去ったのだが、84~85年に作曲された〈7番〉には、明らかに、こうした現実的な悲劇を見据えたうえでの、人間らしい慟哭が感じられるように思う。
一方で、ドヴォルジャークに世界への扉を開く明るい出来事も起こった。1884年3月ロンドン・(ロイヤル)フィルハーモニー協会から自作品を指揮するようにとの招待を受けて海を渡ったドヴォルジャークは、序曲〈フス教徒〉〈スラヴ狂詩曲第2番〉〈第6交響曲〉〈スターバト・マーテル〉で、圧倒的な大成功を収めたのだ。なかでもロイヤル・アルバートホールで、1万2千人の聴衆を前にしての〈スターバト・マーテル〉に対する喝采は熱狂的で、かつてハイドンやメンデルスゾーンがロンドンを訪れた際に収めた大勝利に匹敵した。ほどなくドヴォルザークはフィルハーモニー協会の名誉会員に選ばれ、協会のために新しい交響曲を書くよう依頼を受けたのである。
ドヴォルジャークのロンドンでの成功は、チェコの音楽界にとっても画期的な出来事となったのだが、当時の状況をブリアンは以下のように述べている。
「ハプスグルクは、チェコ人を地面に抑えつける政策をやめず、ウィーンからは絶えず、ボヘミア的要素を好ましくないとする、厳しい指令がやって来ていた。ドヴォルジャークの国際的規模の成功は、チェコ民族とその文化が、250年に及ぶパフスブルクの暗黒時代をも生き抜いて来たことを、世界に示した。」
〈7番〉は、こうした状況から誕生した。矢は先ずロンドンに向けて放たれ、ヨーロッパ本土の先進国に「ボヘミアに天才作曲家あり」という確固たる評価を広めていくのである。
(金子建志氏 - 曲目解説より)