グスタフ・マーラー(1860~1911)交響曲第9番

第1楽章

冒頭、チェロとホルンによって不規則なリズムを持つ主題が密やかに、しかし緊張感を持って演奏される。その後に続くハープ(譜例①)。これらは最初に登場したこの時点では、はっきりとした性格を表現するには至っていない。

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そして、第2ヴァイオリンによって演奏されるため息のような主題(譜例②)。

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これは、《9番》の前作となる《大地の歌》の6楽章「告別」終結部で友との別離を歌う‘ewig,ewig’(永遠に、永遠に)(譜例③)を引き継いだものであり、さらに言うと、ベートーヴェンのピアノソナタ第26番《告別》の冒頭‘Lebewohl’(ドイツ語で「さらば」)(譜例④、譜例にある‘Lebewohl’の書き込みはベートーヴェン自身によるもので、出版されている楽譜に印刷されている)とを受け継いだものとなっている。ここに至って、この《9番》の性格が微かに示される。そして、この暫く後に初めてフォルテが登場する時、この音楽の持つ悲劇的な性格が撤回されようのない様相で立ち現れ、決定的な刻印を残す。

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そのまま音楽は悲劇的な音調のまま、「告別」主題を中心として、生と死の闘いのドラマとして突き進む。「生」は、しかし常に「死」の主題(譜例①)によって打ち砕かれる。再現部で、トロンボーンによってこの主題が演奏される際、マーラーは譜面にドイツ語で‘mit höchster Gewalt’(「最大級の力で」)と書き込んでいる。‘Gewalt’とは暴力を意味する言葉。マーラーがこの主題に威圧的で破壊的なイメージを盛り込んでいることは明確である。曲の最初では、密やかな音でしか存在しなかったこの主題が、ついにここまで成長したのだ。そしてそれは、避けようのない運命のように立ちはだかる。

コーダは安らかな雰囲気の中に終わるが、そこには引き延ばされた「告別」主題。ここも幻のユートピアなのか。

第2楽章

内面的な世界の中に留まっていた音楽は、一転して外の世界へ。オーストリアに伝わる舞曲を素にした音楽で、大きく分けて三つの要素からなる。最初はレントラー舞曲、素朴な田舎踊り。しかし、ブルックナーの田舎踊りとは違って、マーラーのそれが単なる素朴なものに終わる筈がない。そこにはどことなく皮肉っぽい調子が交じる。交響曲においてこれを継承したのがショスタコーヴィチであるが、ショスタコーヴィチの場合はモダニズムもしくは新古典主義の時代の中にあった人であったため、その交響曲に民俗的な要素は低い。これとは違い、マーラーは民俗的な要素をふんだんに自らの交響曲の中に取り入れた作曲家だった。これ自体はドイツ・オーストリア系の交響曲作曲法の系譜に連なることであり、特に珍しいことでは無いのだが、マーラーの場合、こういった舞曲を用いることは、先に述べたように、民衆の音楽の単なる引用という以上の意味がある。

最初のレントラー舞曲から、次の舞曲へ。それは速いテンポのワルツ。スケルッツォ的な性格を併せ持っており、音楽は荒々しく進む。そして第三の舞曲は再びレントラー舞曲。そのテンポは一番ゆったりとしたもので、音楽も穏やかな様相だが、そこに忍び込むのは「告別」主題。
これらの舞曲が入れ替わり立ち代わり何度か登場して、いささか強引にコーダへ。微睡みの中、踊りは終わる。

第3楽章 ロンド―ブルレスケ

冒頭に‘Sher trotzig’(極めて反抗的に)というマーラーの但し書きがある。ブルレスケとはバーレスク、道化芝居のこと。トランペットの短いファンファーレの後に続く主題(譜例⑤)は、《交響曲第1番》 第3楽章の主題(譜例⑥)が圧縮されたもの。

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ここに至り、マーラーは素朴な民謡のカノンの読み替えを遂行しているのである。それは世界を読み替えることでもあった。ブルレスケと名付けたこの音楽によってマーラーは、アドルノの表現を借りるならば「世の成り行きを笑い飛ばしたい」と欲したのだった。しかし、そのマーラーの試みは果たして成功しているのだろうか。

《9番》が持つ楽章の数は四つで、伝統的な数の範囲に収まっている。声楽を用いることもせず、形式的には伝統的な交響曲のスタイルから特に大きな逸脱はない。が、第4楽章に瞑想的な緩徐楽章を持ってきた点は、いささか伝統的な交響曲の様相とは趣を異にしている。このスタイルの前例となるのは、チャイコフスキーの交響曲第6番《悲愴》である。1893年に作曲されたこの曲は、マーラーがその交響曲で描き出した世界の綻びを、いち早く音にした交響曲でもあった。この頃から、作曲家は楽天的なフィナーレを作曲することが段々と難しくなってしまっていたのである。《悲愴》の3楽章は極めて快活で速いテンポの、しかしどことなく皮肉な調子の交じる音楽である。この第3楽章の後で、ゆっくりとしたテンポで内に向かう音楽である第4楽章が置かれているのだが、マーラーの《9番》の楽章の構成も、この《悲愴》の例を踏襲している。

音楽は早いテンポの中で一気呵成に進む。その速いテンポの中で様々な要素が入れ替わり立ち替わり登場し、道化芝居は乱雑の極みを見せるかのようである。しかしマーラーの作曲技法は冴え渡り、音楽自体の混乱は全く無い。そしてシンバルの一撃。景色は一瞬にして変わり、美しく夢見るような世界が眼前に開ける。ここは失われたユートピアか?ここで美しく歌われるトランペットの主題(譜例⑦)は、次の第4楽章では中心主題となる。

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しかし、このユートピアもやはり長くは続かない。音楽は再び闘争的な世界へと舞い戻るのだった。音楽はさらにテンポを上げて終結部へ。そこではもはや、笑い飛ばすことも笑い飛ばされることも何の意味を持たない。アドルノが述べたように、「世の成り行きに対する笑いは消えている」のである。

この消えた「世の成り行きに対する笑い」が再び現れるのは、マーラーの交響曲第9番からおよそ半世紀後、ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第1番においてであった。この協奏曲の終楽章もまた、一気呵成に突進する「ブルレスケ」である。

第4楽章 アダージョ

アダージョとは速度記号のことで、緩やかに、という意味。マーラーはこれを楽章の標題に選んだ。楽章自体の主部のテンポは‘Molto adagio’(非常に緩やかに)。マーラーの場合、速度記号を楽章の標題に据えるのは《5番》の第4楽章「アダージェット」に前例があるが、《5番》の感傷的な美しさに彩られた「アダージェット」とは違い、9番の「アダージョ」は悲劇的なまでに高められた崇高な美しさが全曲を貫く、マーラー渾身の音楽である。

弦楽合奏を主体としたこの楽章は、前述のように第3楽章で登場した旋律が全曲を支配する。弦楽器の厚みのある音が幾重にも重ねられ、悲劇的なクライマックスに向かっていく。クライマックスの後に訪れる静寂。無論、この楽章にも様々な仕掛けが張り巡らされているのだが、特にここでそれを述べるようなことはしない。音楽そのものを、そして音楽の背後にある世界を聞き取って頂ければそれで十分だからである。

(中田麗奈)

(註)アドルノの引用は テオドール・W.アドルノ著、龍村あや子訳『マーラー 音楽観想学』 法政大学出版局 1999年 より。

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