もうひとつのマーラー解説 「マーラー記号論」

後半楽章の鍵を握る〈トリスタンとイゾルデ〉と〈亡き子を偲ぶ歌〉

アダージョ楽章の原型はシューベルトの最後の交響曲〈グレイト〉の第2楽章であろう。初め、森を逍遥していた主人公は、やがて幻想の世界に入っていき、そこに自らの死を甘美な夢として垣間見ることになる。現実の世界に戻って再び歩き始めても、その記憶は付きまとい、穏やかだった歩みは、次第に、死に神との凄絶な闘いの様相を呈してくる。その死闘は、抜き差しならない修羅場に到達したところで、減7の不協和音で断ち切られる。死の告知であり、主人公は諦念の中に沈んでいく。

ブルックナーは〈9番〉のアダージョで、この図式を継承する際、カトリック的な「最後の審判」の要素を盛み、断罪の不協和音は更に凄まじいものとなった。

マーラーの場合は、より私小説的だ。生々しい体験をとおして、このカタストロフを自覚し、自らが直面している現実的な葛藤をリアルに音化しようとした。そこで引用したのが、ヨーロッパ音楽界を震撼させていたワーグナーの〈トリスタンとイゾルデ〉である。伏線は、第1楽章から仕組まれている。一つは第I幕の前奏曲の冒頭⑩。“トリスタン和音” を含む名高い主題だ。ワーグナー自身も〈ニュルンベルクのマイスタージンガー〉の第III幕で、この⑩の上声部の半音上昇↓を、主人公のザックスに恋愛に対する自制の意味で歌わせているが、マーラーも同様に半音上昇部を引用する。

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もう一つは、それから派生した第III幕の前奏曲⑪。第II幕までの粗筋を要約しておこう。

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「叔父、マルケ王に敵国の若姫イゾルデを妻に迎える役を命じられたトリスタンは送迎の船中で、媚薬とは知らずに毒酒を飲んだせいもあって[そこで⑩が奏される]イゾルデと相愛の仲になる。王との婚姻後、密会を続ける仲を怪しんだ同僚の奸計に嵌まった二人は、逢瀬の現場に踏み込まれ、トリスタンは致命傷を負ってしまう。」

第III幕はカレオールの古城。逃れたトリスタンは傷みに堪えながら、イゾルデに思いを馳せる。王を裏切った悔恨、傷の痛み、イゾルデへの慕情、それらが一体となった重苦しい前奏曲⑪は、苦渋に満ちた弦の和音で始まるが、その上声部は⑩の上昇部から派生したと見做せる。マーラーは、この2つを合成して、第1楽章の展開部前半136小節~⑫に引用したのである。

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第1楽章は別項のように、シンコペーションのリズム主題(別項譜例①)が、牙を隠した形で始まる。チェロとホルンにリズムを分散させる偽装工作のために、その正体に気づく人は殆どいない。狙撃犯が組み立て式のライフルを分解して鞄に潜ませ、何食わぬ顔で侵入したようなものだ。ドミネ(主)に繋がるD(レ=ニ音)を主音とすることから、天国や救いを象徴する調として用いられてきたニ長調なので、むしろ明るく、牧歌的な音楽のようにさえ感じられる。ところが、その音楽がトランペットのファンファーレによって燦然たる頂点に達した瞬間、リズム主題が⑬のように、本来の銃の形に合体されてその正体を現し、主人公を照準に捉える。以後、展開部の音楽は、繰り返し発砲された殺戮弾(金管が⑬を執拗に反復・強奏)が、遂に致命傷を与えるまでを、冷徹に描き尽くす。

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シンコペーション・リズムを、心臓の不規則な鼓動のイメージとして用い、『死の象徴』的に扱うことはR.シュトラウスが〈死と変容〉で、既に試みている。〈死と変容〉のそれ⑭は最終的には『死の告知』に至るのだが、〈9番〉も同様で、⑬が何度も繰り返された後、音楽は一旦、暗闇に沈む。その後、ハープの先導する〈大地の歌〉の《告別》の主題⑤に乗って、苦悩するトリスタンを表す上昇音型が引用されるのだ。当時のマーラーは、妻、アルマと若い建築家グロピウスの不倫に悩んでいたため、マルケ王の立場にあったわけだが、それを暗示させるこの半音上昇の連鎖⑫も第2Vn.から始まり、やがて第1Vn.が呼応する。

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