第Ⅱ部
第2楽章 イ長調 3/4 テンポ・ディ・メヌエット〔草原の花たちが私に語ること〕
2つのトリオを含む5部形式で書かれたこの楽章は、ブラームスの交響曲第2番を、雛型にしたと見て良いだろう。ブラームスは第3楽章で、ベートーヴェンが定型化したスケルツォ楽章の緩急を逆転。つまりベートーヴェンでは、軽快なスケルツォ主部=Sと、歌謡的なトリオ=Tが[S-T-S-T-S]=[急-緩-急-緩-急]という5部形式を形成するのに対し、ブラームスの〈2番〉は、牧歌的な主題で緩やかに始まり[緩-急-緩-急-緩]となる。マーラーは〈復活〉の第2楽章に続いて、ここでもブラームス型の“逆スケルツォ”を継承したのである。
主部は「静かに咲いている花」を、テンポが速まるスケルツォ部は「蜜を求めて周りを飛び回る蝶と、更にそれを捕らえようとする子供達が入り乱れ」といったアニメーションを見るような情景が描かれている。この楽章についてマーラーは「嵐のような風が野原を吹き抜け、草花を揺るがす時、草花はかろうじて茎に支えられながら、より高い世界へ救済されることを懇願するかのような坤き声をあげ、すすり泣くのだ」という解説を残しているが、この言葉はコーダを聴くと、納得がゆく。
第3楽章 ハ短調 2/4 コモド・スケルツァンド〔夕暮れが私に語ること。森の獣たちが私に語ること〕
ここでは鳥を主役に、動物達の情景が描かれる。元になっているのは『子供の不思議な角笛』による歌曲〈夏の日の交替〉(1887~90年作、ピアノ伴奏版のみ)。原曲は季節が変わって鳥の主役が交替することを歌った、素朴な詩。
変ロ短調の前半でカッコウの死 ⑦ が、変ロ長調に転じた後半では、代わって出番となる夜鴬(ナイチンゲール) ⑧ が歌われる。似た素材によるもう一つの歌曲〈高き知性への讃歌〉で、カッコウ対ナイチンゲールの歌合戦の審判を務めたロバも「嘶き」で加わる。
この鳥獣戯画的なエピソードが一段落した所で、6/8拍子の幻想的な曲想に変わり、遠くからポストホルンの調べが聞こえてきて、情景は一変する。同じく『角笛』による〈トランペットが美しく響くところ〉(朝焼けの中、恋人を訪れる戦死者の霊を歌った甘美な歌曲)、〈巨人〉の《花の章》、〈復活〉のスケルツォ後半、〈9番〉の第3楽章のトリオといった、トランペットを主役にした甘美なロマンスは、マーラーならではの聴きどころの一つ。その異次元飛躍的な設定を、より効果的に活かすために、マーラーは遠方から吹くポストホルンの位置を、中断の前後で変えるように指定している。今回のホールは、舞台外の場所が限られているが、その中で、それなりに工夫するつもりだ。
以後、コミカルでエネルギッシュな動物達の世界と、夕暮れの幻想とが交替しながら進み、まどろみの中に終わりそうになるが、⑦のクレッシェンドが突然、夢の世界に割り込んできたような変ホ短調の頂点を導き、⑧による哄笑のうちに結ばれる。
第4楽章 ニ長調 2/2・3/2〔夜が私に語ること。人間が私に語ること〕アルト独唱。
マーラーと、4年遅く生れたR.シュトラウス(1864~1949)が、時代の寵児たる哲学者ニーチェ(1844~1900)の代表作〈ツァラトストラはかく語りき〉(1833~91)を素材に、ほぼ同時期に大作を書き上げたことは注目に値しよう。R.シュトラウスが32歳の1896年に作曲・初演した交響詩〈ツァラトストラはかく語りき〉は、「トランペットのファンファーレ+ティンパニによる4度音程の連打 ⑨」による荘厳な冒頭が、S.キューブリックの映画〈2001年、宇宙の旅〉等、様々な場面で引用されているから、ご存じの方も多いだろう。
マーラーも、同時期の1995~96年に作曲したこの〈3番〉の第4楽章で、〈ツァラトストラ〉から歌詞を引用しているのだが、筆者は、終楽章のコーダがティンパニの4度音程の連打 ⑩ で終わることにも注目している。これについては、再度コメントしたい。また、作曲の過程でニーチェの著作と同じ『悦ばしき知識』を交響曲全体のタイトルにしようと考えていたことも付け加えておくべきだろう。
この楽章で初めて声楽が導入され、アルト独唱が、〈ツァラトストラ〉の結論部分を歌う。マーラーは後に第8番〈1000人の交響曲〉の第Ⅱ部で、ゲーテの《ファウスト》を使用した際も、長大な物語の最終場面だけを歌わせるという離れ業を行なった。《忠臣蔵》に譬えるなら、仇討ちを成功させた四十七士達に沙汰が下り、切腹して果て、『大石蔵之助の魂が浄界に昇っていけるか否か?』というあたりから、1時間かけて原詩どおりに付曲していくのである。
ここでも同じで、原書では、この場面(詩)が2回登場する。1度目は第3部の終わりから2番目に当たる『もう一つの舞いの歌』。「一つ……おお人間よ!気をつけなさい! 二つ……何を話しかけているか深い真夜中は?」といったように12時の鐘と共に歌われる。R.シュトラウスの〈ツァラトストラ〉では、コーダの頂点で実際に鐘が12回鳴らされるので、イメージは、こちらに近い。
2度目は第4部、終わりから2番目の『酔歌』。今度は「君には、あれが聞こえないのか、それが密かに、恐ろしく、心をこめて君に語っているのを? 老いた、深い、深い真夜中が語っているのが? おお人間よ!気をつけなさい!」といったように、同じ詞が一段ごとにかなり長い解釈つきで繰り返される。
R.シュトラウスと違ってマーラーのほうは全くの静寂だが、牧童の吹くシャルモー(原始的なオーボエ)が、深夜の牧草地を感じさせる。このオーボエやコール・アングレによる牧笛の原型は、ベルリオーズの〈幻想交響曲〉、ワーグナーの〈タンホイザー〉〈トリスタンとイゾルデ〉等だが、マーラーは、楽音的に正確な音程で吹くのを回避して『環境音楽』に徹しさせようと、「音をズリ上げるように吹くこと」と指定している)[70~71小節~ ⑪]。
詩には二つの対立が仕組まれている。一つは「昼」対「夜」。これは〈トリスタン〉と同じで、「昼」は俗世間的な現実に縛られた虚偽の世界、「夜」は思考や愛において、より人間的な真実を正しく映し出す『水晶球』のようなものというわけだ。
もう一つは「Weh=痛み、苦痛」対「Lust=快び、快楽」。Wehは、日常的に「ああ痛い!」「おお悲しい!」みたいに使われる言葉であり、より知的には「世界苦」のような表現もある。難しいのは「Lust」。ドイツ語だと「したい気持ち、意欲」「楽しみ、喜び、心地よさ、満足感」が先にきて、次に「情欲、(性的な)欲望、快楽」がくる。同じスペルの単語が、英語だと「性欲、肉欲」→「切望、渇望」→「欲、煩悩」→「楽しみ、喜び」の順となり、ちょうどドイツ語と逆になる。
英語訳の題名〈メリー・ウィドウ〉で知られるレハールの喜歌劇の原題は「Die lustige Witwe」。ご存じのように、主人公の未亡人のハンナは、男漁りをしているわけではなく、しごく真っ当に、女性としての幸せを求めて、財産目当ての求婚ではないことを確認したうえで、愛で結ばれた再婚へとたどりつく。
筆者は言語学の専門ではないので、あとは音楽からコメントするしかないが、マーラーが、ここで「Lust」に見ている概念は、一見、レハールに近い。つまり、人間としての「生きる喜び」を、自然な欲求から生れるものとして捉え、柔軟な曲線として描こうとするのだ。この〈3番〉では、ここまで〈トリスタン〉の第Ⅱ幕の愛の二重唱や、第Ⅲ幕の《愛の死》を思わせる音楽を聞くことはできないのだが、この楽章中間部の「この夜は深い、昼が考えた以上に深い!※1」という言葉を契機に、急転する。
実際は、ここで〈トリスタン〉的な世界、マーラー自身の作品でいうなら、交響曲第5番の《アダージェット》を先取りしたような、叙情的な陶酔への扉が開かれるのだ。それは「(あらゆる快びは)深い、深い永遠を求める!※2」という結びの言葉で、頂点に達する。これは、〈大地の歌〉の終楽章《告別》後半の甘美な頂点をも予感させるだけに、別項で指摘されているようにヴィスコンティが《アダージェット》と共に取り上げた意味も理解できよう。
第5楽章 へ長調 4/4 〔カッコウが私に語ること(スケルツォ)。朝の鐘が私に語ること(天使)。天使達が私に語ること〕『角笛』から『哀れな子らのもの乞う唄』 アルト独唱、児童および女声合唱。
昼→夕暮れ→真夜中と時計を進めてきた第2部は、ニーチェの警告的な詩によって重苦しい思念の淵に沈んだところで、べクトルの急反転が起こる。児童合唱の『夜明けを告げる鐘』によって沈黙が破られ、眩しいほどの明るさの中で、イエスによるペテロの免罪が歌われるのだ。
この楽章を理解するには、新約聖書の「最後の晩餐」の後、捕えられたキリストが十字架にかけられるまでの経緯を知っておく必要がある。
児童合唱が歌う「ビン、バン(キン、コン)」と鐘が晴れやかに鳴り響き、天国におけるキリストと12使徒との晩餐の様子が描かれる。そこでは『ペテロの罪が赦される』のだが、ペテロの罪は『十戒』を破ったこと。
キリストが、12使途の一人、ユダの密告を指摘する『最後の晩餐』は、あまりにも名高いが、その後、イエスは他の11人の離反だけでなく、高弟のペテロすらも「鶏が鳴く前に、3度、私のことを知らない」と言って、裏切ることを予言する。
その予言どおり、イエスが捕らえられてみると、弟子達は、皆、主を見捨てて四散。裁判になっても、弁明に立つ者は現れない。その時、中庭に引き返してきたペテロに気付いた女中が「あなたもイエスと一緒にいた」と問い詰めるが、ペテロは「何のことを言っているのか私には分からない」と言い逃れる。
別の女中が「この人はナザレのイエスと一緒にいました」と訴えても、再び「そんな人は知らない」と誓って、打ち消す。
更に、人々が「確か、お前は、あの連中の仲間だ。言葉遣いで分かる」と詰め寄ると、ペテロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない!」と三たび打ち消す。すると直ぐ鶏が鳴いたため、ペテロはイエスの予言を思い出し、外に出て、激しく号泣するのだった。以上が「マタイ伝」の要約である。
『十戒』で言うなら「嘘をつくなかれ」を破ったことになるのだが、このペテロの行状は、一般論的な「虚言は悪」といったレベルを遥かに逸脱した背信行為になる。そのため、イエスの受難を語る際に、人間の暗部を容赦なく抉った逸話として、最上位に挙げられることが多い。
しかし、復活したイエスは、先ずペテロの前に現れてその罪を赦し、教会建設等の大事業を含めた福音宣教の中心的な存在として、起用するのである。
つまり、この〈子供の不思議な角笛〉で描かれている天国の情景は、その間の出来事ということになろう。児童合唱が鐘の擬音で先導し、女声合唱が経緯と情景を説明。アルト・ソロが、ペテロ役となって主に赦しを請うのである。
ただし、この楽章でのマーラーの描き方は、いかにも寓話的で、中間部でペテロの言葉に重ねられている木管による泣き声の模倣も、どこかメルヘン的で、ディズニーかジブリのアニメを観ているようだ。
今回の船木さんの訳では、ペテロに「おいら」と呼称させている。これは中世の絵画等で、死者の霊を子供として描いたこととも関連していよう。実際のところ、キリストは青年だったわけだし、弟子達は、さらに若かったのだから。こうしたことも含めて、マーラーが、この楽章で設定した童話的な軽さが意図的だったことは、終楽章に入って初めて理解できるはずだ。
第6楽章 ニ長調 4/4〔愛が私に語ること。モットー:父よ、私の傷を見てください! いかなる生き物も死なせないで下さい! (『子供の不思議な角笛』より)〕
救済の調性ニ長調を基調に果てし無い高揚を続けてゆくこのアダージョ楽章は、既に述べたように、第1楽章冒頭のホルンによる主題から派生した主題③cが自由に変奏されていく長調の主部と、シンコペーシュンを伴奏とした幾分テンポの速い短調の“嘆き”が交替しながら進む。
ここでの“嘆き”は、当然のことながら、ペテロのそれと見做すべきだろう。イエスについて3度「知らない」と偽証したペテロが泣いた、という聖書の記述と、この『角笛』の恩赦のエピソードが、もし同一人物が書いた小説であるなら、当然、その間にペテロの中で生じた心理的葛藤について、何らかの記述があって然るべきなわけで、マーラーは、2つを並べた作家としての義務を全うすべく、それを音楽で描いたことになる。
中世に至る間にキリスト教が本来とは違う方向に進み、「魔女狩り」「異端審問」「免罪符」といった暗黒の歴史を築いてしまったことは、既に歴史的事実となっていた。それを踏まえ、例えばワーグナーは〈タンホイザー〉で、ローマ法王に懺悔したことで得られるカトリックの免罪を否定。献身的な愛の自己犠牲による救済を打ち出し、〈パルジファル〉では聖なる愚者の同情(受難者の痛みへの共感)による救済を結論とした。R.シュトラウスは『アンチ・クリスト』を貫いたから、交響詩〈ツァラトストラ〉の場合も、ニーチェの原作同様、懐疑的な沈潜で結ばれる。
マーラーもキリスト教について懐疑的な面を持っていたのは〈ツァラトストラ〉を引用したことで明らかだが、そのスタンスは〈パルジファル〉に近い。マーラーは、この2つのエピソードを結びつけることで、「自らの裏切りを心から後悔したペテロが、罪を問うことなく赦してくれたイエスに感謝し、より強い信仰心を懐くに至った」という経緯に肉付けを与えたのだ。この終楽章では、それを人間的な感情の推移という観点から、細やかに描くことで、自らの宗教観として示したのである。
『ペテロの嘆き』を示す短調の部分で、音楽的に重要なのは第4楽章の後半部※3[100~101小節]で、「この世の痛みは深い!」と歌われる際の、3度上昇する主題⑫a。これは〈嘆きの歌〉で、殺された弟の骨が嘆く際の主題⑫bや、〈巨人〉の《葬送行進曲》⑫cと結びつけられるが、音型的により密接なのは前回、冬のメインで演奏したブルックナーの〈7番〉の第2楽章で、ワーグナーの死に対する嘆きを描いた⑫dではあるまいか。
第6楽章の短調のエピソードは、2回とも、後半で激しい感情表出を伴いながら加速し、倍テンポに到達した頂点でホルン等の金管群が⑫aを繰り返すことで、悲嘆の深さを痛切に刻印。2度目の嘆きの頂点の後、長調に転じて明らかな浄化が生じ、トランペットとトロンボーンによって③cが奏され、赦されたことが示される。
コーダは4度音程の反復⑩による壮大なエンディング。この4度音程が、神の象徴「ロマネスカ・バス」⑥の基幹となっていることは勿論である。このことからも、マーラーが、巨大な平原のように広がるニ長調(中心音のDは、主=Domineを表す)のコーダで、ニーチェやR.シュトラウスとは異なった宗教観を描こうとしたのは明らかであろう。
広大な頂上部全体の響きについては「荒っぽい力ではなく。満ち足りた、高貴な音色で」と指定。フェルマータが書かれている最終音には「長く」とあり、「ディミヌエンドすることなく(減衰させることなく)」と書かれている。さらに「切ってはならない(音を切る動作をしてはならない)」という、指揮者にとっては“スフィンクスの謎掛け”のような注文で締め括られている。
(金子建志)