グスタフ・マーラー(1860~1911)交響曲第10番 補筆5楽章版

「嵐の花嫁」

グスタフ・マーラーとアルマ・マーラーは、19歳の年齢差がある夫婦であった。うら若き、美しい花嫁。しかし、19歳の年齢差があること自体に問題はない。問題だったのは、夫がその年齢差を問題と感じたこと、であった。若く魅力的な女性を、既に若くはない自分が夫とすることの負い目。二人の娘を授かり、どうにか小康を保っていた夫婦関係だったが、上の娘が病死したことをきっかけとして、二人の関係は暗転し始める。

アルマは、自分が多くの男性を引きつける魅力を持った女性であるということを再確認し、その魅力を有効に使うことを決心する。そして、若き建築家グロピウスと激しい恋に落ちる。これは夫のグスタフ・マーラーが交響曲第9番を完成させ、交響曲第8番の初演に向けて邁進していた時期のことである。

もちろん、グロピウスは相手が人妻であるということなど承知の上だ。そればかりでなく、療養を終え逢瀬の地を去って夫の元へ戻った人妻を追いかけ、グロピウスはアルマとグスタフと直接対峙する。

この時は一旦グスタフを選んだアルマであったが、夫の目を盗んでの逢瀬は止めなかった。夫を出し抜く、妻。この時期に夫が書き続けたのが、この交響曲第10番であった。背信、裏切り、愛、甘美な感触。記憶はざわめき続ける。アルマ・マーラー=ヴェルフェルがクックの試みを禁止したのは、単に音楽的に不遜な試みであると判断したためだけからなのか。

グスタフ・マーラーの死後、アルマはグロピウスと結婚している。その間に、アルマは画家オスカー・ココシュカと間に激しい恋を経験している。ココシュカはアルマをモデルに一枚の絵を描く。その絵は「嵐の花嫁」と題されていた。

“Wunderbar”

著作権者に禁止された補筆5楽章版。しかし、この音楽を耳にした人間は、この素晴らしく感動的な音楽が禁止されていることに納得がならなかった。そこで、「女王」アルマ・マーラー=ヴェルフェルに直談判することを決意する。1940年代から補筆5楽章版への道を模索していた音楽学者のジャック・ディーサーは、クックの試みが非常に高い価値を持つことを確信する。そこで、ディーサーは仲間と共にこの女王の宮殿に乗り込むことを決意する。その手には、先に放送されたクック版による演奏のテープがあった。既に20年近くニューヨークに居を構えていたアルマは、そこでクックによる補筆5楽章版を初めて耳にする。

1963年4月、遂にその時が訪れる。全曲が終わった後、アルマ・マーラー=ヴェルフェルはもう一度テープを最初から聴かせてくれるように頼む。そして、2回目の演奏を聴き終わった後、アルマはそっと呟く。”Wunderbar”「素晴らしい」、と。

20年近くアメリカに住んでいながら、英語を満足に話すことがなかった、いや話す必要を認めなかった女性。彼女にとって、世の中には自分の賛美者とそれ以外の二通りしかなかった。アルマ・マーラーは夫グスタフ・マーラーについての貴重な回想録を残しているが、そこには多くの間違いが含まれることが確認されている。しかも、それらはアルマが自分の立場を正当化するために、わざと回想に手を加えたものであった。その生涯に於いて、決して最も愛したとはいえない男の姓を、それが一番有名で世に知られているからか、晩年に至るまで名乗り続けている女性。彼女は、結局、彼女の最初の夫となった男の音楽を理解することも好きになることもなかった。そんな女性が、思わず感嘆の声を漏らしたのである。「素晴らしい」、と。この瞬間、クックによる補筆5楽章版は、音楽史の中ではっきりとした正当性を獲得したと言って良い。アルマ・マーラー=ヴェルフェルはクックの試みに対して課していた禁止を解除する。こうしてクック版は一度失った生命を取り戻す。ついに、その時が訪れたのであった。

クック版のスタンス

クックが補筆5楽章版に取り組んだのは、多少成りゆきめいたところがある。BBCの記念番組に関わっていく中で、段々とのめり込んでいったというのが近い。そのせいか、クック版は他の版と比べて客観性が高く、そのため、幾つかあるこの交響曲第10番の補筆5楽章版の中でも、断然の演奏頻度を獲得している。また他の版であってもクック版を参考・下敷きにしたものも多い。

クックはアルマに認められた後も補筆作業を続けた。クックの死の直前、クック版のスコアが出版される。クック版のスコアは、現在の時点ではこの曲のスコアで唯一出版されたスコアとなるが、それを目に通すと幾つかのことに気が付く。まず、第1楽章と第2楽章の音符は、二つの大きさで書き分けられている。通常の大きさの音符と、それよりかは少し小さめの音符。この小さめの音符が、クックが補筆した音符となる。さらに、マーラー自身によるオーケストラ譜が残っていない第3楽章の途中からは、マーラーが残した簡略譜を下段に追記することによって、どのような補筆を行ったかが一目でわかるようにしている。また、スコアには小節全部が休みであっても、そこに休符は書き込まれていない。音を出す音符のない小節は、休符もなく、まったくの空白となっている。マーラー自身による音符は存在せずとも、マーラーがこの曲を未完に終わらせなかったならば、その部分にまだ音符を書き込んだかもしれない。その可能性を示すために、クックは休符をも書き込まなかったのだ。

これらのことと豊富な校訂報告によって、クック版は補筆版でありながらも非常に高い客観性を獲得するに至る。クック版の正式なタイトルは「交響曲第10番の草稿に基づく演奏版(パフォーミング・バージョン)」となっている。クックは、必要最低限の補筆しか行わなかった。必要な音はないかもしれない。しかし、不要な音もない。クック版は、演奏者による音の追加をまったく拒んではいない。(数ある補筆5楽章版の中には、演奏者による音の追加を禁じている版もある。)クックは未完のトルソーとしてのこの曲の姿を破壊しなかった。そしてそのことが、クック版を非常に信頼性に高い、かつ利便性の高いものとさせたのだった。演奏者のみならず、新たに補筆5楽章版を手がけようとするものにとっても、クック版は有益な指針として存在している。

五つの楽章と創作者としての執念

その音符の風景に濃淡はありながらも、マーラーは自らの手で音楽の全貌が見渡せる所までの作曲は終えていた。全5楽章、その構成は第3楽章を中心とした対称性を見せている。短い第3楽章を二つのスケルツォ楽章が挟み、さらにそれをゆっくりとしたテンポの楽章が挟む。第5楽章は途中テンポが速くなる部分があるが、その全体の性格はゆっくりしたテンポのものが支配している。この楽章の配列だが、マーラーがこの順番で作曲したのか、またこの順番を最終意志として確定させていかは定かではない。例えば第2楽章の簡略譜の冒頭には、「スケルツォ−フィナーレ」と記した痕跡があり、他の楽章にもまた迷いの痕跡が確認できる。しかし、第3楽章の途中からオーケストラ譜が簡略譜となること、また第3楽章からマーラーの言葉による書き込みが増えることなどから、作曲の順番は現行の配列の順番の通りに進んだのではないかと考えられる。マーラーが楽章の順番を変えた例としては、交響曲第6番で第2楽章と第3楽章の順番を入れ替えた例がある。(アバドの最新録音は、第2楽章がアンダンテ、第3楽章がスケルツォとなっている。)作曲途上においても一旦完成させた後となっても、マーラーは様々な試みを行っているのだ。それに、この痕跡は、マーラーが10番の完成に最後まで執念を燃やしていたことを示しているようである。10番を支配している感情は、死ではない。いや、もちろん死に対する様々な思い・感情が譜面に書き込まれているのは間違いないことであるが、決してそれのみに支配されていたわけではない。死、それにアルマへの思いとはまた別のものが、マーラーを交響曲第10番の創作に向かわせたのだ。それは作曲家としての意思、創作者としての執念ではないだろうか。

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