第1楽章 アダージョ
アダージョとあるが、これは速度記号ではない。楽章の題名として付けられたものである。これは曲の性格を示すものとしてマーラーが名付けたものであり、音楽は途中では速度をあげたりせずに、終始ゆっくりとしたテンポで進む。
交響曲の最初の楽章をこうしたゆっくりとしたテンポとすることは、ベートーヴェンが確立した「闘争から勝利へ」という交響曲のスタイル・理念を放棄することに他ならない。いや、放棄という表現は適当ではないだろう。マーラーは、交響曲の存在意義と方法論に、まったく新しい地平を見いだしたのだ。これは続く第5楽章まで俯瞰しないと見えてこないことの一つである。
ビオラの序奏、速度記号はアンダンテ。この序奏が終わると、アダージョの速度記号の本編にはいる。しかし、アンダンテのビオラの旋律はこの楽章の続く所々に現れ、この音楽の性格を決定づける。深い、瞑想的な主題。しかしこの主題には音程の広い跳躍が何カ所も存在し、起伏と不安定さをも表現している。曲はヴァイオリンの音だけが微かに残り、それが途切れそうになった瞬間、不協和音によるコラールが炸裂する。突然のクライマックス。そして、トランペットによって鳴り響くA(ラ)の音。それはAlmaの象徴か。この楽章はグロピウスの訪問以前に書かれた可能性が高い。アルマの裏切りを知る以前のことである。それは、予感か。それとも恐れ、いやもっと別なものなのか。
第1楽章は全体として、交響曲のスタイルを強く規定してきたソナタ形式からはかなり自由になっているし、そもそも西洋音楽を支配していた調性の概念からも多くの自由を見せている。これらは前作の9番から比べても、マーラーが強くそして遠くに来たことを示している。
音楽は静けさを取り戻し、弦楽器が弦を指で弾く音で終わる。余韻は残らない。静寂。しかし、これは第1楽章の終わりであって、音楽全体の終わりではない。音楽はこの後、まったく別の様相を見せることとなる。
第2楽章 スケルツォ
前の第1楽章ではソナタ形式と調性からの逸脱を示したマーラーだったが、マーラーはこの楽章ではリズムの規範を激しく揺るがしている。拍子は目まぐるしく変わり、音楽は快活ながらも落ち着かない捕らえどころのない姿を続ける。この激しい変拍子は、ほぼ同じ時代の作品であるストラヴィンスキーの《春の祭典》を彷彿とさせる。しかし、《春の祭典》がバレエ音楽として作曲され世に出たのに対し、マーラーのこの音楽は、交響曲という最も抽象性の高い音楽の形式で作曲されたものなのだ。これもまた交響曲というスタイル・理念の、新しい地平に他ならない。
トリオでは、ゆったりとした気分で拍子も3拍子に落ち着く。レントラー、田舎舞曲のテンポ。(ただし、この速度指定はクックによるもの。)再びテンポをあげてスケルツォ主部に。そしてまたレントラー舞曲。短いコーダを経てこの楽章は終わる。
第3楽章 煉獄(プルガトリオ)
この楽章を手がけている辺りで、グロピウスの訪問があったと推測する研究者が多い。
煉獄とは天国と地獄の間のこと。カトリックの教義にはあるが、プロテスタントは否定した。ダンテの『神曲』で世に知られる。この音楽がダンテと関わりがあるものか、それとももっと別の主題によって導かれるものなのか、それは定かではない。しかし明らかなのは、この楽章とマーラーの歌曲集『少年の魔法の角笛』の中の〈地上の生活〉との類似。パンを買えない貧しい母親が自ら小麦を刈りそれで挽いた小麦粉でパンを捏ねて焼いている間、息子は飢えて死んでしまう。これが、歌曲〈地上の生活〉。この第3楽章は5分に満たないその短さと共に、「歌のない歌曲」といった趣である。
また注目すべきことには-これは音には現れてこないことなのだが-、この楽章から欄外に書き込んだマーラーの言葉が見られるようになることである。内容は悲観的な調子を帯びた、死や愛に関する言葉が多い。これは、アルマに対してのメッセージなのだろうか。
さらに看過できないことがもう一つある。自筆譜の第3楽章のタイトルページ、この下半分が切り取られているのである。恐らく、それをしたのはアルマ。何故?そこに、彼女を非難するグスタフの言葉が書き込まれていたから-というのは誰もが思いつくこと。しかし、限りなくそうであると思われるにかかわらず、そうであるという確証は、無い。アルマは周囲を翻弄し続ける女性であった。後生の我々もまた、彼女に翻弄され続けるのだろうか。
第3楽章に使われた素材は、その後の楽章の重要な局面において決まってその姿を現す。短いながらも、さまざまな意味で全曲の中心に位置する、重要な楽章である。
第4楽章 (スケルツォ)
第2スケルツォ。マーラー自身による題名付けはないが、「悪魔が私と一緒に踊る」という書き込みが冒頭部になされている。
第2楽章とは趣を異にし、リズムは3拍子のまま進む。ワルツ。途中、今度はシュランメルン、酒場の音楽といった感じを聴かせる箇所がある。儚さ、夢、幻。そういったものを皮肉っぽく、時にはグロテスクに際だたせながら、また憧憬と諦念というコントラストをも示しつつ、音楽は進む。段々と音楽は生気を失い、コントラバスの一瞬のソロの後、大太鼓の一発がある。そして、そのまま休むことなく第5楽章に進む。
「この意味はお前だけが知っている」
マーラーによる簡略譜のこの部分の余白には、次のようなマーラーの書き込みがある。
「この意味はお前だけが知っている。あぁ、あぁ、あぁ」
「さらば、私の竪琴よ!さらば!さらば!さらば!あぁ!あぁ!あぁ!」
この大太鼓については、アルマは回想録の中でわざわざ説明を行っている。それによると、これはニューヨークで二人が目撃した殉職した消防士の葬儀の際に鳴らされた軍楽用大太鼓の音であるらしい。
この大太鼓が表しているのは、アルマの裏切りによってもたらされた精神的なショックであろうか。マーラーは、交響曲第6番の終楽章において、英雄に襲いかかった衝撃を振り落とされるハンマーの音で表現した。そのことを考えると、大太鼓の音はマーラーの心の衝撃の象徴とみなすのが、最も自然であるように思われる。
しかしここで注目しておきたいのは、都市の音を巧みに盛り込むマーラーの姿がここにもあるということだ。マーラーは民謡や都市の喧噪の音を積極的に自分の交響曲の中に取り入れた。それは、いわばヨーロッパの長い歴史の中で培われた人々の生活だったのだが、この新大陸アメリカでも、マーラーの関心は枯れることがなかった。歴史あるヨーロッパのそれとは少し装いを変える、摩天楼ニューヨークの音の風景。今も昔も、ニューヨークでは消防士が街の人々から高い敬意を受けるという。殉職した消防士。葬送の音。それを、マーラーは交響曲の一つの転換点に使用しているのである。ここにも、交響曲の新たな地平を垣間見ることができる。
第5楽章 フィナーレ
前の第4楽章から引き続き大太鼓が響く。低音が上昇音形を奏するが、これは第3楽章で現れた素材からのものである。何度もそれを中断する大太鼓。そこにはっと現れるフルート。優しく、美しい旋律。救済のモチーフか。これにもまた第3楽章の素材が確認できる。そして音楽は速度を上げ、闘争的な性格を持つ部分にはいる。そのクライマックスで鳴り響く不協和音とトランペット、Aの音。そう、これは第1楽章の再現である。そしてそこに鳴り響くのは、全曲の冒頭でビオラが聴かせた旋律。そして音楽は静けさを取り戻し、安らぎさえ感じさせながら全曲の終結部に向かう。
「お前のために生き、お前のために死す」
マーラーがこの曲に残した終結部のスケッチは、実は二つある。それは内容的には同一であるが調性に違いを見せる。一つは変ロ長調で、もう一つは嬰ヘ長調。最初マーラーは変ロ長調で書き、後に嬰ヘ長調のものを書いた。クックは嬰ヘ長調を選択したのだが、この2種のスケッチには恐るべき秘密が隠されている。この終結部、簡略譜には欄外にまたマーラーの書き込みが残されているが、それは何と二つのものに、同一箇所に同一の言葉が書き込まれているのだ。
「お前のために生き!お前のため死す!アルムシ!」
アルムシとはアルマの愛称。最後はアルマへの呼びかけで終わっているのだが、この言葉は発作的に突発的に書き殴られたものではなく、マーラーが確信を持って呼びかけたものであるのだ。誰に対して?これはもう、アルマに対して以外に誰がいるのか。
全曲の最後、ヴァイオリンがシのシャープから一オクターブ上の、さらにその上のソのシャープまでを一気にグリッサンドで駆け上がる。そして最後にほんの一瞬だけ高まりを見せた後、波が引くように、音楽も引いていく。静かに、そして限りない優しさをもって。
諦めか、絶望か、それとも喜びか、幸福か。最後のこのグリッサンドをどう捉えるか、これは人によって意見が分かれることであろうし、決まった正解が用意されているようなものでもない。そもそもこの交響曲第10番の全体をどう捉えるか。愛しき妻への言葉、生と死と愛のドラマ。
しかし、決してそれだけでは無いはずだ。優れた芸術作品は、多義的な意味を同時に持ち合わせている。マーラーのこの音楽も、決してまだ語られていないものがきっとあるに違いない。それを確認する前に、まず、知らなければならない。1楽章だけの音楽ではなく、全5楽章の音楽として。もし本日の私たちの演奏が、皆様にとってのそのような出発点になることができたとしたならば、それは私たちにとっても大いなる喜びとなる筈である。
(中田れな)