第67 回演奏会 - 2022年7月24日(日) 13:30開演 会場:習志野文化ホール・指揮:金子 建志・演目:ムソルグスキー/交響詩「禿山の一夜」、ボロディン/「ダッタン人の踊り」、ブルックナー/交響曲第4番

マーラー 交響曲第5番 嬰ハ短調

オリジナルの交響曲第5番は?

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指揮者として活躍していたマーラーは、指揮の仕事がオフシーズンとなる夏の間に別荘にこもり、そこで集中的に作曲をするというスタイルをとっていた。交響曲第5番も、そういったスタイルで手がけられている。1901年の夏に作曲を開始し、翌1902年の夏に完成。マーラーが親しい知人に語った内容からすると、1901年夏の段階ではこの時点では4楽章構成で、その第3楽章まで書き進められていた。ではなぜ、楽章が一つ増えたのか。それは、マーラーの人生において最も大きな出会いの結果だった。アルマである。マーラーは1901年11月、アルマ・シントラーという女性と出会い、そこからすぐに恋に落ちる。12月の末には婚約を発表、翌1902年3月にウィーンの教会で結婚式を挙げる。電撃婚だった。1901年の夏と1902年の夏の間に、マーラーの人生に決定的な転機が訪れているのだ。そして、この交響曲の第4楽章。この第4楽章は、マーラーと親しく交友を結んだ指揮者ウィレム・メンゲルベルクによると、この楽章はマーラーがアルマへの愛情を込めて作曲された音楽でプロポーズに相当するものだった、アルマはそれを受け入れてマーラーの元に来たのだ、と。メンゲルベルクはこれをマーラーとアルマの両方から聞いたらしく、そうなると信憑性は高い。

つまりマーラーは、作曲途中の交響曲に、この甘美な音楽を当初の構想を変えて無理やりねじ込んだことになる。荒技である。であれば、これを受けて、それまで作曲が進められていた楽章に変更が加えられたのかどうか。これを判断する物的証拠はないのだが、1~3楽章と4楽章に関連は見受けられず、あまり大きな修正はなかったかもしれない。しかし、結果的に第5楽章となったフィナーレ楽章は、第4楽章の主題が登場することから、アルマの登場と新たな第4楽章の挿入により、明らかに当初のコンセプトに修正が加えられていることが分かる。そのコンセプトの修正がどれほどのものだったのか。

仮に、この交響曲第5番を現在の形でそのまま第4楽章だけを取り除いたならば、極めて歪な形になるのがわかるだろう。完成した第5番は、第3楽章、スケルツォ楽章がちょうど真ん中に位置し、この楽章を挟んで前半1・2楽章と後半4・5楽章でシンメトリックな形になっている。中心に位置するこの第3楽章は、スケルツォ楽章としては非常に複雑で長大な音楽で、名実ともに紛れもなくこの交響曲の中心に位置する音楽となっている。音楽の進行も、前半の悲劇的で苦悶に満ちた情景から一転し、後半の甘美な、そして輝かしい勝利への凱歌へと続く転換点となっている。ここから第4楽章を取り除いてしまうと、第3楽章が異様に大きすぎて、全体のバランスが一気に崩れてしまう。そうなると、元々の構成としてはフィナーレ楽章がもっと長大だったのかとも考えるが、それも少し無理がありそうである。新たな第4楽章の挿入で、第3楽章は元々の構想からさらに長大で複雑ななものに変貌を遂げることになったのか。既に1901年の夏の段階で、マーラーはこの第3楽章は極めて複雑で演奏も至難のものになると語っているのだが、ここから更に変更があったのだろうか。いや、変わったのはフィナーレ楽章で、それまでの楽章には大きな変化はなかったのか。アルマに出会わなかったマーラーの交響曲第5番は、いったいどのような音楽だったのだろう。

マーラーは何人(なにじん)だったのか?

1860年、マーラーはモラヴィアのカリシュトという小さな村でユダヤ人の商人の家庭に生まれた。が、一家はグスタフの生後4ヶ月後にはカリシュトの近くにある、この地方の中心都市であるイーグラウという街に移住する。当時、この地方を支配していたオーストリア・ハンガリー帝国がユダヤ人に対して居住制限をかけたらしい。そのため、イーグラウでマーラーは成長することになる。とはいえ、それはマーラーにはプラスに働いたであろう。イーグラウはカリシュトとは比べ物にならない大都市で、オーストリア人、モラヴィア人、ユダヤ人が混在して住み、各々交わりつつ、かつ固有の生活習慣も保持しながら、生活を営んでいた。そういった多種多様な要素の混合はマーラーの音楽の基本原理である。ドイツ語を母語としつつ、音楽を学び、イーグラウに駐屯するオーストリア軍の軍楽隊の演奏に耳を傾ける。マーラーの音楽の原点がここにあると言っても過言ではない。ちなみにカリシュトとイーグラウは当時この地域を支配していたオーストリア帝国の公用語たるドイツ語の呼び名。現在はチェコ共和国に属し、それぞれカリシチェ、イフラヴァという名前となっている。

さて、マーラーは出世階段を登っていき帝国の中枢、ウィーンの宮廷歌劇場の音楽監督という地位に登り詰める。マーラーはユダヤ人の家庭に生まれ当然のようにユダヤ教徒だったのだが、ウィーンでのポストが具体的な話になった時点で、あっさりとカトリックに改宗している。ウィーンはカトリックの街で、ハプスブルク家も当然カトリック教徒。ウィーンで地位を得るためには、それこそ明文化されていたルールなどなかったが、カトリック教徒でなければならないというのは暗黙の了解事項だった。ここでカトリックに改宗したマーラーに、葛藤の跡といったものは見当たらない。マーラーは、イーグラウの土地で、その地のユダヤ人でなければ体験できないような体験をたくさんしたであろうし、それは必ずしも良いことばかりではなかっただろうが、そういった経験がまさにマーラーの血肉となっている。それにも関わらず、か、それだからこそ、なのか、マーラーは実際の地縁・宗教的繋がりに大して価値を置いていなかったようである。マーラーはウィーンの次はアメリカ、ニューヨークを活動の拠点に選んでいる。郷愁に身を置くことではなく、新しい環境に身を置き続ける。それが、マーラーの選んだ人生であり、音楽だった。マーラーが「自分は○○人である」という確固とした意識を持つことは、やはり想像のしにくいことで、実際、マーラーは自分を何人であると規定しなかった。それは根無し草を選ぶということであり、当時においても現代でもいつの時代であっても、卓越した才能と強い精神力を持って初めて可能となることかもしれない。

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