セルゲイ・プロコフィエフ(1891~1953) 《スキタイ組曲》

プロコフィエフとストラヴィンスキー、そしてディアギレフ

skythian-thumbプロコフィエフは1891年生まれなので、1882年に生まれたストラヴィンスキーのだいたい一世代下にあたる。プロコフィエフは《春の祭典》 (1913)でストラヴィンスキーの前衛的な音楽がセンセーショナルな成功を収めたのを目の当たりにして、これだ!と思ったのだろうか、ストラヴィンスキーの破壊的・暴力的な面をさらに増幅させた音楽で売り込みを図る。誰に?《春の祭典》で、センセーショナルな音楽と踊りでパリを喧噪の渦に巻き込んだバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)。そのバレエ・リュスを率いるロシア貴族の男、セルゲイ・ディアギレフ。このディアギレフこそ、プロコフィエフが売り込みを図ったその相手であった。いや、ディアギレフは単なる窓口でしかなかったのかもしれない。プロコフィエフが本当に狙っていたのは、西側世界での成功だった。

希代の名プロデューサー、ディアギレフ。ストラヴィンスキーは彼が世に送り出したと言って良いだろう。他にも、バレエ・リュスの舞台に立ったり音楽を担当したり美術を手がけたりして、バレエ・リュスから羽ばたいていった芸術家は数知れない。才能と野望に溢れる若きプロコフィエフは、自らもその一人になることを望む。ディアギレフもまた、若いセンセーショナルな才能を常に探し求めていた。1914 年、ロンドンにてプロコフィエフとディアギレフは初めて出会った。プロコフィエフ自身が演奏する彼のピアノ協奏曲第2番を聞いてプロコフィエフに興味をかき立てられたディアギレフは、プロコフィエフにバレエ音楽の作曲を依頼する。その際、古代世界を題材として希望したのはディアギレフだったという。ロシアに戻ったプロコフィエフは作曲を開始、翌年、プロコフィエフはディアギレフと再開し、彼に作曲したバレエ音楽を自らの演奏したピアノで聞かせる。スキタイ人を題材としたそのバレエ音楽には、《アラとロリー》という題名が付けられていた。

ロシアとスキタイ

スキタイ人とは現在の南ウクライナの辺りで、紀元前に活動した遊牧民族。ヘロドトスの『歴史』にも記述がある。一時は一大勢力を築くも紀元前3世紀頃には集団としてのまとまりを失い、歴史の舞台から「スキタイ人」の名は消える。しかし19世紀に入ると、黄金で作られた工芸品が数多く発見され、考古学調査も進む。ロシアの人々に取って、スキタイ人はロマンティックな想像を掻き立てる存在となった。血縁関係などの実際はともかくとして、自らのルーツの一つとしてのスキタイ、というイメージである。そしてプロコフィエフの時代。ロシアの苛烈なる帝政は既に臨界寸前、また、工業化と都市化が進み人々の疎外感も増していく。そうした中、太古の騎馬民族というスキタイ人のイメージは、それまで以上に新鮮で、かつ生命力溢れる力強いものだったに違いない。プロコフィエフは勝負曲の題材にこのスキタイ人を選ぶ。それは、当時のロシアの人々に取っては、確かにインパクトを与えることが出来るものだったかもしれない。

《アラとロリー》から《スキタイ組曲》へ

しかし、ディアギレフは違うことを考えたらしい。この曲の受け取りを拒否したのである。ここで、自分の音楽に合わせてダンサーたちがバレエ・リュスのステージで舞うというプロコフィエフの野心は、一旦あえなく潰える。

なぜ、ディアギレフはこの曲を拒否したのだろうか。まず指摘できるのは、ストラヴィンスキーの《春の祭典》と似ている、ということ。ストーリーは違うが、しかしバレエではそれはあまり関係ない。(この件に関し、プロコフィエフの次男のオレグ・プロコフィエフは「ストラヴィンスキーがディアギレフに、私の《春の祭典》があれば十分ですよ、と吹き込んだのかもしれません」と語っている。身贔屓故の話であろうが。)炸裂する金管打楽器、という音響のイメージは確かに似ている。

また、バレエ・リュスのお客であるパリの聴衆は、ロシア的な異国情緒を感じさせるものを期待していたということもあるであろう。「スキタイ人」は、ロシアでは訴えかけるものがあったかもしれないが、パリではそうはいかない。スキタイの地は、実際でもイメージ上でも、パリからは遥か遠いところにあった。

さらには、時代の急激な変化もまたあげられる。ディアギレフとプロコフィエフが初めて出会った1914年は、第一次世界大戦が勃発した年でもあった。1914年6月に始まった第一次世界大戦は、ヨーロッパの社会を根底から覆し、またそれにより芸術のあり方も全く変えてしまった大戦争だった。しかし、戦争が始まった当初は、そこまで大きな戦争になるとは考えた者は殆どおらず、出征した兵士も年末のクリスマスまでには無事に帰れるだろうと呑気に考えていたのである。

その予想は全く外れ、1918年の秋までヨーロッパの人々は凄惨な殺し合いを続けることになる。ディアギレフは、既に1915年の段階で、この戦争が終わった後の世界は全く違うものになるということを感じ取っていたのではないだろうか。もちろん、その具体的な姿をイメージできた訳ではないだろうが、何かが変化するということだけは明確に理解できた筈だ。《春の祭典》でさえ古びてしまう世界に、その模倣作など!

しかし、プロコフィエフは折角の構想をそのまま捨て去ることはしなかった。バレエは諦めたが、ではオーケストラがコンサートで演奏する管弦楽曲にしてしまえ、というので出来たのがこの《スキタイ組曲》である。そのような経緯のため、もともとのバレエの題名である《アラとロリー》は、《スキタイ組曲》という題名と一緒に譜面に併記されることが一般的となった。バレエ音楽としての《アラとロリー》の譜面は今に残っていない。

《アラとロリー》の物語

《スキタイ組曲》は4曲からなる。その物語展開はもとの《アラとロリー》から大きく変わってはいない。各曲の紹介と共に物語を追っていくこととする。

第1曲「ヴェレスとアラへの信仰」

太陽神ヴェレスとその娘、森の神であるアラ。この神々への信仰。音楽は衝撃と共に突然荒々しく始まる。エネルギーの奔流。炸裂する金管楽器、打楽器。しかし音楽は静まり、ハープ、チェレスタ、ピアノによって神秘的な音響が紡ぎだされる。そのうちに暗く不気味な雰囲気となるが、それもまた静まり微かに揺れ動きながら音楽は消え行く。

第2曲「チュジボーグと悪鬼の踊り」

ヴェレスに敵対する、邪神チュジボーグ。ホルンが吠える。チュジボーグが現れた。地の底から湧き出る悪鬼。邪神は威圧的に踊る。曲の途中、弦楽器が弓の木の部分で弦を叩く奏法(コル・レーニョ)によって、骸骨が踊るかのような不気味な音響が演出される。このコル・レーニョは、ベルリオーズが《幻想交響曲》 (1830/55)の第5楽章で、魔女の狂宴を描いた際にも用いられている。グロテスクな情景を想起させるにはうってつけの特殊奏法であった。その背後で甲高い音でわめく木管楽器。そして再び吠えるホルン。炸裂する大音響で、この邪神と悪鬼の踊りは終わる。

第3曲「夜」

夜、悪鬼を引き連れ、アラを略奪せんと現れたチュジボーグ。不気味に地面を這い回る音楽。連れさられそうになるアラ。吠える金管。しかし月の光を浴びたチェジボーグは力が弱まり、アラを連れることなく退散する。ピッコロ、ハープ、ピアノ、そしてチェレスタによって表現される月光と神秘的な夜の世界。この部分は特に、《春の祭典》第2部「生贄の儀式」の最初の部分と雰囲気が非常に似通っている。恐らく、この類似に気がつかぬディアギレフではなかったであろう。

第4曲「ロリーの出発と太陽の行進」

勇士ロリーがチェジボーグとの戦いに赴く。激しい戦い。そしてヴェレスが太陽となって地平線から姿を現す。チェジボーグの敗北。音楽は若干唐突な感じでクライマックスを迎え、そのまま堂々とした終結になだれ込む。その太陽の日の出は、輝かしく、しかしどこか禍々しい。この終結は、ある意味《春の祭典》よりも唐突で、しかも衝撃的かもしれない。その生涯において予定調和的なものを激しく嫌ったプロコフィエフであったが、そのスタイルが顕著に現れたかのようなこの終結部は、ひょっとしたら既にディアギレフの理解を越えたところにあったのかもしれない。

 

《スキタイ組曲》は1916年、ロシア帝国の首都、ペトログラードにて初演が行われた。ロシアの音楽界では大スキャンダルとなったが、それがパリのディアギレフのところまで届いたのだろうか、ディアギレフはその後、何度かプロコフィエフの音楽をバレエ・リュスで取り上げる。ロシア革命を避け亡命したプロコフィエフは、本格的に西側世界での成功を目指す。《道化師》 (1920)はロシア的な要素のもの、《鋼鉄の歩み》 (1925)は社会主義国となったロシア=ソ連を肯定的に捉えるものであった。しかし、ジャズが席巻する第一次世界大戦後のヨーロッパにおいて、バレエ・リュスはかっての勢いを失っていた。プロコフィエフも満足する地位を得られることがなかなか出来ない。そのうち、ディアギレフは死去し、バレエ・リュスは解散する (1929)。自身の売り込みをまだ終えることの出来ないプロコフィエフ。それは結局、西側での成功を諦めてロシア―ソ連となったが―に帰国し、スターリンに仕えることを決心するまで、空しく続けられることとなる。プロコフィエフのバレエ・リュスでの最後の作品は、《放蕩息子》 (1929)と名付けられた演目に付けた音楽であった。

(中田麗奈)

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