ドイツ・ロマン派最後の輝き
リヒャルト・シュトラウスは1864年、バイエルン王国の首都ミュンヘンで生まれた。父親は名ホルン奏者。R.シュトラウスは早くから音楽の才能を発揮し、20歳を過ぎる頃には既に名指揮者として名を知られる存在となっていた。そしてまた、この頃から本格的な作曲も手がけるようになる。1888年、《ドン・ファン》完成。翌年の作曲家自身の指揮による初演は大成功であった。ここから、R.シュトラウスの快進撃が始まる。数々の交響詩は当時から今に至るまで、常にオーケストラのレパートリーであり続ける。
そして、オペラ。《サロメ》(1905)、《薔薇の騎士》(1910)の大成功は、R.シュトラウスの作曲家としての地位を不動のものとさせた。それらのオペラの大成功により、R.シュトラウスはワーグナー以降のドイツ・オペラ、ひいてはドイツ・ロマン派の伝統を受け継ぐ後継者として、一身にその期待を集める存在となる。R.シュトラウス自身は、その期待に応えうる才能を十分に持っていたのだが、時代がそれを許さなくなりつつあった。ロマン派が存在し得た社会的条件が、次々と崩壊していったためである。結果として、R.シュトラウスはドイツ・ロマン派の最後の担い手、最後の輝きとなる。
R.シュトラウスが没したのは1949年。二度の世界大戦を経て、社会の姿はR.シュトラウスが《ドン・ファン》を作曲した頃とは全く別のものに様変わりしていた。また芸術の世界においても、既にロマン派の時代はとっくに終焉し、時代の最先端は無調や十二音技法も通り越したところにあった。
ドン・ファン伝説とレーナウの詩
ドン・ファンとは、ヨーロッパに伝説として語り継がれる男の名前。理想の女性を追い求めて、数々の女性遍歴を重ねる。近世に入った頃から、ヨーロッパの芸術家はこぞってこの人物を自らの芸術作品の題材に取り上げるようになった。音楽の分野では、モーツァルトのオペラ《ドン・ジョヴァンニ》(1787)で描かれたのが最も有名であろうか。束縛の多い社会の中で、ドン・ファンは、自分の追い求めるものの為に、危険を顧みず自由気ままに振る舞う。最後には、過去の行動が仇となって命を落とすことになるが、自らの理想を追い求める芸術家にとって、ドン・ファンは、その悲劇的な最後も含め、創作意欲を掻き立て自らの姿を投影する格好の素材であった。
R.シュトラウスもそんなドン・ファン伝説に創作意欲を掻き立てられた芸術家の一人であったが、R.シュトラウスが直接の題材としたのは、ドン・ファン伝説のそのものでは無い。ドン・ファン伝説を題材として書かれた一編の詩に、であった。その詩を書いたのは19世紀前半のオーストリアに生きた詩人、ニコラウス・レーナウ。
レーナウの詩に描かれたドン・ファンの姿は、例えば《ドン・ジョヴァンニ》において台本作家のダ・ポンテが描いたような、エネルギッシュで生に執着する姿とはいささか趣を異にし、どこか虚無的で自分の悲劇的な最後を予感している、というものであった。(ちなみに、レーナウの詩においてドン・ファンの命を奪うのは、ドン・ファンが過去にその命を奪った騎士長の幽霊ではなく、騎士長の息子であった。現実的な設定とされているらしい。)
物語と音楽展開
《ドン・ファン》の音楽の展開は、レーナウの詩の物語に忠実に沿ったものではない。R.シュトラウスは、総譜の冒頭にレーナウの詩の抜粋を掲載したが、詩の場面の一つ一つに音楽が対応しているわけでは無い。それはあくまでイメージを喚起する為のものであろう。
曲の冒頭、力強い上昇から始まるメロディ。これこそが、ドン・ファンを表現する主題だ。音楽は力強さに漲り、華やかに進行する。しかし、途中、ところどころに現れる暗い影。それは、幾度もの快楽に満足することができないドン・ファンと、そんなドン・ファンの意識に忍び寄る黒いものを表しているのであろう。ヴァイオリンのソロによって導かれる、恍惚とした世界、夢の世界へ。しかし、ドン・ファンはそれに満足することはなく、新たなる冒険を求める。幾度もの冒険と、絶望。音楽は暗く沈み込むが、直ぐに力強さを取り戻し、冒頭の主題が舞い戻る。訪れるクライマックス。ドン・ファンの生命は最も明るく輝いたように思えるが、直ぐにそれは消え、混乱が支配する。そして、あっけない、最後、死。曲は静かに、事切れるように終わる。
《ドン・ファン》は鮮烈な出世作となり、R.シュトラウスは順風満帆な音楽人生を歩み始めるのだが、後にその人生は暗転する。その苦悩の種類は全く異なるが、R.シュトラウスは、ドン・ファンのその暗い影から逃れる事が出来なかったのかもしれない。
(中田れな)
語られなかった後半生 ~一つのささやかなポプリとして~
順風満帆な人生を歩んでいたR.シュトラウスであったが、人生の最後に差し掛かった頃に、これ以上はない苦渋を飲まされることとなる。人類史上、最悪の存在との対峙。それは、R.シュトラウスにとっても、全く思いもかけなかったことに違いない。
1933 年11月、R.シュトラウスはドイツで新しく設立された全国音楽局という役所の総裁に就任する。権力を握ったばかりのナチス政府に請われた為である。その 頃は彼らも本性はあまり表にはしていなかったが、次第にそれを剥き出しにしていく。増していく軋轢。そして1935年7月、R.シュトラウスは全国音楽局 総裁の職を辞任する。ユダヤ人作家シュテファン・ツヴァイクが台本を担当したオペラ《無口な女》が問題視された結果の、強制的な辞任であった。この時、 R.シュトラウスの多くの作品が演奏禁止とされた。しかし、ナチス政府とのギクシャクとした、かつ危うい共同作業はその後も続けられる。1936年8月、 ベルリン・オリンピックの開幕式。ベルリン・オリンピックはナチス政府が国威発揚の為に最大限の利用をしたことで知られているが、その開幕式で自作の式典 音楽の指揮をするR.シュトラウス。その見返りとして、先の演奏禁止措置は解除された。
R.シュトラウスとナチス政府との関わり合いについ てが語られることは少ない。R.シュトラウスが積極的にナチス政府に協力したという見解も存在する。筆者はその見解には同意しないが、しかし、R.シュト ラウスとナチス政府との関わりについては、実像が知られる以前に、語られること自体が稀であるというのが、まず現状であろう。
R.シュトラ ウスに関するその現状は、実は音楽そのものに対しても同様かもしれない。R.シュトラウスの作品は確かに頻繁に耳にする。しかし、それは前半生の作品に 偏っていることは否めない。R.シュトラウスは後半生に入ってから作風をそれまでとは微妙に変えていく。また、晩年のモーツァルトへの回帰。それらの作品 もまた、前半生の作品と同じく、いや、ひょっとしたらそれ以上の芳香を放つ。しかし、それらの作品の演奏頻度は、前半生の作品と比べると決して多くはな い。
再来年、R.シュトラウスは生誕150周年を迎える。その時、私たちはR.シュトラウスの何を聞き、何を語っているだろうか。
(中田レーナウじゃなくて中田れな)