R.シューマン (1810~1856) 交響曲第2番 ハ長調 作品61

シューマンのオーケストレーションをいかに料理するか

シューマンのオーケストレーションに問題があるというのは、昔から指摘されていたことだが、まずシューマン(1810年生~1856年没。今年は没後150年)の前後で交響曲や管弦楽曲で名が挙がる大作曲家を生年順に並べてみよう。

『18世紀生れ』
 ハイドン(1732)
 モーツァルト(1756)
 ベートーヴェン(1770年)
 ウェーバー(1786)
 シューベルト(1797)

『19世紀生れ』
 ベルリオーズ(1803)
 メンデルスゾーン(1809)
★シューマン(1810)
 リスト(1811)
 ワーグナー(1813)
 ブルックナー(1824)
 ブラームス(1833)

この中で、普通「オーケストレーションが上手い」とされるベルリオーズ、ワーグナー、ウェーバー、メンデルスゾーンは、いずれも時代を代表する指揮者として活躍した人達だ。一方、問題視されるのがシューマンとブルックナー。もう一人、敢えてリストアップしなかったがショパン(1810)もそう。20歳頃に作曲した2曲のピアノ協奏曲のオケパートは、批判はされても称賛されることは先ずない。彼等は、いずれもオーケストラ指揮者としての才能に欠けていたか、実質的な現場体験が少ないといった事情が絡んでいる。

シューマンの場合は指揮者として活躍する可能性が無かったわけではない。例えば1841年の交響曲第1番〈春〉の初演を指揮したのは友人のメンデルスゾーンだったが、44年のロシア楽旅の際はシューマン自身が振っている。晩年のデュッセルドルフ時代(1850~56)は、市の音楽監督として招かれたのでオケを振る機会もあり〈3番・ライン〉の初演も振っているが、指揮者としての評価は下降の一途を辿った。精神の病のせいもあろうが、ここはそれを詮索する場ではないので、オーケストレーションに関する方向に舵をとろう。

メンデルスゾーン、ベルリオーズ、ワーグナーといった指揮者として大活躍した人達は、自作だけではなく、他の作曲家の作品も振っている。その経験で得た「鳴りの悪い響き」「無駄で効率の悪い組み合わせ」その結果として「楽員から出る不満」等を反面教師として、自らのスコアリングを改善していくことも可能だった。これは楽譜だけで勉強している作曲家に較べて遥かに有利な状況であり、同様に指揮者として活躍したマーラー(1860)やR.シュトラウス(1864)へと継承されてゆく。

シューマンの場合、もう一つ念頭においておかなくてはいけないのは、彼の活躍した19世紀の前半に起きた楽器の飛躍的な進歩と(例えば金管におけるヴァルヴ=ピストンの採用)、それに伴う形で進んだ編成と規模の拡大である。シューマンは、そうした楽器の進歩に関しては慎重派だった。たとえば、今回のシューマンの〈2番〉(1846)の少し前の1843年に書かれたベルリオーズの〈ローマの謝肉祭〉ではコルネット・エ・ピストンが自然倍音の制約から自由になったことを誇るかのように自在な旋律を吹きまくるが、シューマンの場合は、依然としてベートーヴェン時代の金管の自然倍音的音型に拘っているのだ。この〈2番〉は金管が活躍するが、その多くは自然倍音の典型のような第1楽章冒頭の①aから派生したものだということを指摘しておこう。

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このあたりは、写真や映画がモノクロからカラーに移行した時期の状況に似ている。いち早くカラー・フィルムを使用し、自ら、その可能性を開拓していった進歩派がベルリオーズやワーグナー、黒澤明のように、かなりの時期までモノクロの可能性にこだわり続けたのがシューマンやブラームスということになろう。しかし、同じように“渋く地味で、アンティークな家具”のような響きを生み出す古風な書法を伝承したブラームスに対して「オーケストレーションが問題」という声は、殆ど聞かれない。一方、シューマンに対しては「オーケストレーションを修正して演奏すべき」という意見が今もって続いている。なぜなのだろうか?

その一番の原因は、楽器の重ね過ぎにある。シューベルトの〈未完成〉と〈グレイト〉はいずれも死後に初演されているが、トロンボーンを第1楽章から使っているのは、ベートーヴェンに見られない新機軸。1839年3月21日、メンデルスゾーンの指揮で〈グレイト〉初演を聴いたシューマンが「天国的な長さ」と評したのは有名だが、シューマンの交響曲4曲は全てそれ以降に作曲されており、トロンボーンは〈グレイト〉を模範にしたかのように4曲とも楽章の区別なく積極的に使用されることになるのだ。しかし、音量の大きなトロンボーンを安易に吹かせると、他の楽器を覆ってしまう。それも新たな問題を生み出した。

〈2番〉は、冒頭の金管による主題①aからしてシューマンの特徴が示されている。この①aは、作曲年代としては後になるブルックナーの〈4番・ロマンティック〉冒頭の主題呈示①bに、形だけでなく“ドイツの森の夜明け”という雰囲気まで、そっくりだ。同じくブルックナーの〈3番・ワーグナー〉①cも、音型が似ている。但し楽器編成は異なり、ブルックナーの①bがホルン、①cがトランペットのソロなのに対して、シューマン①aはホルン2(2番はC音の延ばし)+トランペット2+トロンボーン1という大所帯なのだ。

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もちろん、機能的にはどれか1本の楽器のソロでも充分吹けるのだが、シューマンの5本重ねにはそれなりの意味はある。先ずは、曲頭の主題を最弱音のソロで吹き始めるという危険を回避できること。その代わり「5人でユニゾンのピッチを正確に合わせなくてはならない」という別の注意事項が生じるが、ソロで吹き損じるリスクに較べればプラス要因のほうが大きい。

しかし、それよりも重要なのはシューマンが絵の具を重ね合わせたような混合色を好んでいたという事実だ。極端に言うと、こうした厚塗りを『重厚な混合色の魅力』と取るか『効率の悪さ』と批判的に見るかで、評価は変わってくる。筆者は、この冒頭に関しては全肯定派だが、他の部分に関しては多少、工夫をする必要があると思っている。

厚塗り嗜好を思い知らされるのが管だけの分奏。シューマンは「クラリネットはヴィオラと」「ファゴットはチェロと」というように同じ音楽を弦と管で重ね合わせることを好むので、管だけで練習しても、音楽にあまり穴が空かず、つながってしまうのだ。そのままブラスバンドとして演奏も可能といった部分も少なくない。特に全楽器が強奏で重なり合う部分が鬼門で、旋律線を担う弦や木管を、金管やティンパニが打ち消してしまうという事態が頻繁に起こるのだ。しかも、パートによる強弱の書き分けが極端に少なく、多くの部分で全楽器にffやfffが書かれていることが問題を更に悪化させる。弦や木管が重要なことをいくら大声で叫んで伝えようとしても、金管やティンパニが隣で大砲のような強音を炸裂させたら聞き取れるわけはない。

そのため指揮者達がシューマンのスコアに修正を加える場合、その殆どは、こうした強奏部で重なりあっている金管や打楽器をffからpに変更したり、より過激には削除してしまうという手段を採ることになる。そうした問題が一番極端な〈3番・ライン〉をマーラー版(マーラーは全4曲に手を加えたスコアを残しており、出版も意図していた)で指揮したことがあるのだが、その効果や面白さは判ったものの、失われてしまうシューマンらしさも多いということを実感した。芸術で最も重要なのは“個性”であり、演奏効果や整合性を追究するあまり、結果的にマーラー風なシューマンやチャイコフスキー的なシューマンになってしまうのは本末転倒だろう。

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