第66回演奏会 - 2022年1月16日(日) 13:30開演 会場:習志野文化ホール・指揮:金子 建志・演目:ドヴォルザーク/謝肉祭、ヒンデミット/画家マティス、ベートーヴェン/交響曲第6番「田園」

チャイコフスキー (1840~1893) 大序曲〈1812年〉

職人、チャイコフスキー

tchaikowsky 120px1880年6月、チャイコフスキーは楽譜出版社のユルゲンソン社から一通の手紙を受け取った。そこにはモスクワ音楽院院長のニコライ・ルビンシテインがチャイコフスキーに作曲を依頼したいと考えている、と書かれていた。三つのケースがあり、そこから作曲出来そうなものを書いて欲しい、と。三つのケースとは次の通り。①来年開催されるモスクワ産業博覧会の開会式の為の序曲、②ロシア皇帝戴冠25周年記念式典の為の序曲、③救世主ハリストス寺院開幕の為のカンタータ。

ところがチャイコフスキーはこの手紙に返事を返さなかった。ユルゲンソン社の催促に対し、チャイコフスキーは何が気にさわったのか、苛立ちを隠さず次のように返した。依頼するんだったらもっと具体的な指示を出せ、そして値段や納期も明記して欲しい、と。この、値段や納期を依頼時に明確にして欲しいというのは、フリーランスとしては極めて真っ当な考え方であるように思われるが、この時のチャイコフスキーは依頼を受けて作曲をする「職人的」な作曲行為を全く厭わなかったということが分かる。そして、ちゃんとした依頼を受ければ作曲するが、曖昧なままの依頼では受けない、と表明しているのである。かなりの自信であるが、実際、チャイコフスキーの作品には依頼によって作曲された作品が多い。そういったものを高いレベルで提供出来るという自負をチャイコフスキーは持っていたようだし、それは事実だった。とはいえ、チャイコフスキー自身は依頼を受けて作曲した作品と、自分の芸術的欲求から作曲した作品とは、明確に線を分けて考えていたらしい。結局この依頼は後になってニコライ・ルビンシテイン自身からの依頼があり①の博覧会の音楽を作曲することになるのだが、同じ時期に、こちらもまた有名な《弦楽セレナード》を作曲している。パトロンのメック夫人には「セレナードは、私の内面からの衝動に駆られて作曲しましたから、気持ちの籠ったもの」になったという手紙を出している。
《1812年》と名付けられるこの序曲の作曲時期は依頼を受けた年の9月30日から10月7日まで。極めて短時間で書かれており、やっつけ仕事という訳ではないが、チャイコフスキーにとってはロシア聖歌やフランス国歌《ラ・マルセイエーズ》やロシア帝国国歌など、既存の主題をキャッチーに使って手際よく仕上げた、という感覚だったようだ。とはいえ、思い入れが無い為にかえって純粋に技巧を展開できたのか、分かりやすくかつ聞き映えのする曲として高い人気を得るようになった。

 

初演までは少しの紆余曲折があった。このモスクワ産業博覧会は、まず時の皇帝アレクサンドル2世がテロリストが投げた爆弾によって死亡するという大事件により、1年延期される。また、その間に依頼主であり初演の指揮をとる筈だったニコライ・ルビンシテインが急死してしまう。強い衝撃を受けるチャイコフスキー。このショックや様々なトラブルに見舞われ、この時期のチャイコフスキーの完成作品は目立って少なくなってしまっている。それはともかくとして、ルビンシテインに代わる指揮者は決まった。1882年8月、1年遅れでモスクワ産業大博覧会が開催された。旧暦8月8日、《1812年》の初演は当時建設中で完成間近であった救世主ハリストス大聖堂前の広場で行われた。《1812年》初版の表紙には、この救世主ハリストス大聖堂が描かれている。どうも、結果として、最初のユルゲンソンの手紙にあった③の依頼が混ざっているようであるが、ロシア聖歌の使用により宗教的色彩を強く帯びつつも、カンタータといった性格のものではないので、やはり①の依頼に応じた作品なのだろう。救世主ハリストス大聖堂の完成は翌年の1883年であった。初演の際の評判は特に芳しいものではなかった。キエフへ旅行中だったチャイコフスキーは、初演の場には居合わせていない。

一転、人気作へ

そういう依頼の経緯や初演が好評ではなかったこともあり、チャイコフスキーはこの曲に大した思い入れは無かった。題材となったナポレオンのロシア遠征とその敗北についても、特に大きな思い入れがある訳では無いらしい。とはいえ、それなりによく出来た曲だと思っていたようで、1887年11月、モスクワにて自作を自身が指揮をする演奏会においてこの曲を取り上げてみたところ、大好評。それ以来、1888年1月にベルリン、次いで2月にプラハと、外国における自作を指揮する機会において、たびたび《1812年》を取り上げている。外国で自作を紹介する際にこの曲を選ぶとは、よっぽど自信が出来たのだろうか。作曲当初の気の乗らなさとは大違いである。この現金というか変わり身の早さに、繊細だが機を見るに敏、他人の評価に影響を受けやすいというチャイコフスキーらしさを感じてしまうのは筆者だけだろうか。とはいえ、ベルリン、プラハの次に乗り込んだのはフランス、パリであったが、パリでこの曲を指揮した形跡はない。この時、パリで指揮した自作は《弦楽セレナード》だった。

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