レスピーギ (1879~1936) 地の精のバラード

このように、レスピーギの音楽は、曲が進むに連れて原詩の怪奇趣味から意図的に離反乖離していくように思える。そこで参考にすべきは大植盤におけるR.フリードの以下の記述。

「カルロ・クラウセッティ(1869-1943)は詩人以外にも、弁護士及び音楽出版界の重要人物としても活躍し、リコルディ出版社に編集者兼重役として勤務していた。また作曲や舞台監督も副業にしていた。彼が、1899年にナポリの新聞"イル・マッティーノ"に発表した朗読詩『地の精のバラード』は20年後に規模を拡大し、レスピーギの作品の序文として使われるようになった。」

こうした神話や民話的な話には、必ず原型があり、それに枝葉がついて発展していくものだ。特に現実離れした物語、例えば「シンデレラ(灰かぶり姫)」や「安珍と清姫(道成寺)」のような場合、細部が異なる何通りものヴァージョンが存在し、芥川龍之介の「羅生門」や「藪の中」のように、作者が細部に手を加える場合もある。

1899年版『地の精のバラード』がいつの時点でレスピーギを触発したかは不明だが、それに基づいて曲を完成したら、クラウセッティが独自に発展させた、新たな改訂版と、内容が微妙に違っていた、というケースも考えられる。そう推論するほうが自然に感じられるほど、Ⅱ部以降の詩と音楽の乖離は大きいと思う。

この曲には、オーケストレーションの細部や小節数が微妙に違う二つの版が存在している。Ⅰ部の冒頭からしばらくの間トランペットが旋律を吹き続ける版は大植盤で、トランペットとオーボエが別の音型で絡み合う版はサイモン=フィルハーモニア管盤で確認できるが(今回は後者を使用)、両版とも詩は同一なので、詩と音楽それぞれの成立過程と関わり合い、出版社サイドにいるクラウセッティとの力関係、改訂、といった諸問題の解明は、より本格的な研究を待つしかあるまい。

中心人物が常軌を逸した猟奇的な死にかたをする歌劇や管弦楽曲は、20世紀初頭から堰を切ったかのように現れた。R.シュトラウスの〈サロメ〉(1903~05)〈エレクトラ〉(06~08年)、ストラヴィンスキー〈ペトルーシュカ〉(10~11)〈春の祭典〉(11~13)、バルトーク〈中国の不思議な役人〉(18~19)、ベルク〈ヴォツェック〉(14~22)〈ルル〉(28~35)、ショスタコーヴィチ〈ムツェンスク郡のマクベス夫人〉(30~32)等~。

清姫を蛇の化身と、するなら、こちらはカマキリの化身みたいな寓話だが、例えば「父を惨殺された2人の娘が、結婚を餌に仇を誘い込み、見事に本懐を遂げる」というような復讐劇を想定すれば、さほど抵抗なく聞ける。殺害後のバッカナーレは〈エレクトラ〉の歓喜の踊りの再現だ。しかしその場合も、男を英雄的に描くⅡ部以降、特に、死んだはずの男を、サロメの踊りさながらに誘惑するⅣ部は、納得し辛い。

オルフェオ伝説は「死せる新妻エウリディーチェを地獄から取り戻すのに失敗する」悲劇、として知られているが、ギリシア神話では故郷に戻ったオルフェオが亡妻を讃えるあまり、女性一般を卑下したために、女達に八つ裂きにされる、という凄惨な結末となる。ところがモンテヴェルディは父の太陽神アポロを、グルックは愛の神アモーレを登場させて、カトリック的な救済によるハッピーエンドで終わらせているのだ。レスピーギが、ここで、同様の「デウス・エクス・マキーナ(機会仕掛けの神)」を選択したという解釈もできようが、詩に何かの暗喩があるとしても、一般的には疑問の方が大きいだろう。むしろ、謎だらけの今の時点では、レスピーギが、華麗なオーケストレーションを駆使して描いた力相撲と割り切って楽しむことを薦めたい。

(金子建志)

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