恋にうなされて?
現在、ベルリオーズの作品の中で最も良く知られている《幻想交響曲》だが、それは彼の作品の中では最も初期の部類に入る。1830年の春頃の完成だが、この時はまだ26歳という若さであった。完成後、同年の12月にパリにおいて初演が行われ、ベルリオーズは一夜にして話題の人・時の人となる。それは言うまでもなく《幻想交響曲》のセンセーショナルな成功の故であった。多種多様な楽器による多彩な響き、作曲家自身によって付けられた標題とそれを解説したプログラム。ハイドンの交響曲に馴れ親しみ、ベートーヴェンの交響曲でさえ最新の音楽であったこの時代、《幻想交響曲》は極めてショッキングなものであった。
《幻想交響曲》は作曲家自身が付けた標題とプログラム(解説文)に沿って音楽が進行して行くという、それまでにない新機軸を備えた作品であった。そのプログラムをまとめると次のようなもの。「若き芸術家が女優に激しい恋をしたが、彼女は振り向いてもくれない。悲嘆した芸術家は死を決意し阿片で服毒自殺を図るが、致死量に足りず昏睡状態に陥り奇怪な幻覚を見る。その幻覚の中で芸術家は女優を殺し、その罪で死刑を受ける。死後、芸術家はその女優も加わった魔女たちの響宴に遭遇する」。このプログラムはある程度まではベルリオーズ自身の姿が投影されたものであった。1827年、ベルリオーズはイギリスの劇団によるシェイクスピアの作品を観劇するが、そこで『ハムレット』でオフェーリアを演じた女優ハリエット・スミッソンに激しい恋心を抱く。ベルリオーズはスミッソンに何通も手紙を書き会うことを望んだが、スミッソンにとっては数多いファンの一人でしかなく、もちろんベルリオーズに会うことも無くフランスを離れた。ベルリオーズは激しく落胆し、殺意まで覚える程であったが、彼女を題材にした音楽を作曲し、彼女の気を引こうという考えを思い付く。
それは紛れも無く《幻想交響曲》の作曲の一つの動機であるが、しかしベルリオーズを《幻想交響曲》の作曲に向かわせたのはそれだけは無かった。ベルリオーズが交響曲というジャンルに取り組んだのは、ベートーヴェンの交響曲に大きな衝撃を受けたというのが非常に大きい。また、ベルリオーズは《幻想交響曲》を作曲するに際し、スミッソンとは関わり無く作曲・構想された自作の幾つかを素材として使用していることにも注意しなくてはならない。さらに言えば、ベルリオーズはこの恋の後から《幻想交響曲》の完成までの間に、スミッソンとは別の女性との恋を経験し、その恋は結婚直前まで進んでいる。標題とプログラムだけを読むと、まるでベルリオーズが恋心にうなされて一気に書き上げたかのような印象を受けるが、そのベルリオーズの姿は実際のベルリオーズの姿とは、微妙に異なっている。
標題の役割
ベルリオーズは既に初演の時から、各楽章に付けた標題とそのプログラム(解説文)を印刷し、それを観客に配付して各楽章の音楽の進行が何に基づくものか理解することを求めている。またプログラムの内容には何度も何度も手を加えており、非常なこだわりをみせていた。標題交響曲にはベートーヴェンの《田園》という偉大な先達があり、ベルリオーズもそれを意識したであろうことは明確であるが(ベートーヴェン第2楽章「小川のほとりの風景」とベルリオーズ第3楽章「野の風景」)、その表現の方向性は同一のものではない。ベートーヴェンが小鳥のさえずりや嵐といった自然描写を志向したのに対し、ベルリオーズはどちらかというと内面の心の描写に力を注いでいるようである。殺人の現場といった衝撃的な場面は音楽にしやすいのではないかと思わないでもないが、そんなものは構想した痕跡すらない。
それは作曲の経緯にも関係しているのかもしれない。寄せ集めの素材、とは言い過ぎだろうが、《幻想交響曲》は決して一から構想したものでは無く、それまでに書きためていた幾つかの要素を使用して完成されたものであった。標題は、ともすればバラバラになりがちなそれらの要素を一つのまとまりにする役割を果たしているのである。初演後、《幻想交響曲》の音楽それ自体に対して、交響曲に必要な有機的な関連が希薄であるという批判が投げかけられたが、標題を設け、その標題を解説したプログラムに沿った鑑賞を要求するベルリオーズのやり方は、そんな批判を意味の無いものにしてしまう説得力を持ち得るものであった。
また、標題は一つの戦略でもあった。ベルリオーズは初演前に標題を新聞に掲載させ、それに加え、自分と有名な女優であったスミッソンがモデルであることを隠すことが無かった。そのため、《幻想交響曲》は初演の前から非常に名を知られたスキャンダラスな作品になっていた。その結果としての、成功であった。
無論、標題とプログラムを付けたこととその内容は、ベルリオーズ自身のロマン主義的な文学的志向性と密接に関係している。しかし交響曲に標題を設けたベルリオーズは、ただの文学かぶれの音楽家ではなかった。ベルリオーズは生涯を通じて栄光と喝采を渇望し、そのために時の権力に近付くことも厭わなかった人間であったが、そんな戦略家の姿は、標題に様々な仕込みを廻らしたこの時期において既に姿を現しているようである。
《幻想交響曲》で最初の成功を手にしたベルリオーズは、1832年、ついにあれほどまでに願ったハリエット・スミッソンとの面会を果たす。その時、女優としてのスミッソンはかっての輝きを失っていたのだが、ベルリオーズの恋は再燃し、二人は結婚する。一児を設けたが、その後不仲になり、別居、さらにスミッソンは重病で床についてしまう。1854年、スミッソン死去。ベルリオーズはこう書き残している。「ハリエットは、嬉しいにつけ、悲しいにつけ、私の音楽のすべてを吸い込んだハープであった。その弦を、ああ、私は何本も切ってしまったのだ。」
初演は前述の通り1830年、その後、何度も改訂が行われる。標題に付けられたプログラムも幾度か手が入り、1855年以降のものは第1楽章から既に阿片による幻覚の情景となっており、またプログラムの掲載も必須のものとはしていない。
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