アントン・ブルックナー (1824~1896) 交響曲第7番 ホ長調

師と仰いだワーグナーとの出逢いと死

bruckner-7-thumbブルックナーが構造面から交響曲の手本としたのが、ベートーヴェンの〈エロイカ〉と〈第9 〉。楽章と調性から見た場合、〈英雄=エロイカ〉は[第1楽章・変ホ長調-2.ハ短調-3.変ホ長調-4.変ホ長調]。これは同じ変ホ長調で書かれた〈4番・ロマンティック〉の原型となった。第2楽章が同主調の短調に暗転した《葬送風の曲》、第3楽章《スケルツォ》がホルン・セクションを主役とする《狩猟の音楽》という特徴も継承されている。

〈7番〉は主調が〈エロイカ〉より半音高いホ長調(♯4つ)なので、[第1楽章・主調-2.同主短調-(3.主調)-4.主調]という楽章の調性も、第3楽章を除いてそのまま半音上げられ[1.ホ長調-2.嬰ハ短調-(3.イ短調)-4.ホ長調]となった。汎神論的な自然讃歌としての外観をそなえた〈ロマンティック〉に対し、〈7番〉は、以下のように発端からして英雄詩的な追悼の曲として発想されたため、より〈エロイカ〉に近くなっている。

ベートーヴェンにおけるナポレオンは、ブルックナーにとって、ワーグナー。敬虔なカトリック教徒で、教会オルガニストから大学の教職という質素な人生を送ったブルックナーに対し、ワーグナーはプロテスタント的な立場に近く、〈タンホイザー〉ではカトリックの頂点に立つローマ法王による救済を否定し、女性の自己犠牲にキリスト教本来の宗教的成就を具現しようとした。新教徒的な背景は〈ニュルンベルクのマイスタージンガー〉で、より鮮明になるが、〈パルジファル〉では新教・旧教という枠を超えた宗教観に到達する。

ワーグナーは、音楽家としての活動や私生活も正反対。ヨーロッパを股にかけて指揮者として活躍し、ドレスデンで宮廷歌劇場指揮者の身を省みずに革命に参加して追われる身となり、亡命先で匿ってくれたパトロンの妻と不倫に堕ち、というバイロンやリスト風の生き様は、ブルックナー的な生き方の正に対極に位置する。しかしブルックナーはワーグナーを指標とし、ワーグナーも、この素朴な農民風の人物に、超凡の輝きを見出したのだった。

ブルックナーの師キツラーが1863年2月13日に〈タンホイザー〉のリンツ初演を敢行した際、39歳のブルックナーは、そのスコアを共に研究。〈タンホイザー〉には後の〈トリスタンとイゾルデ〉に直結する前衛性が見出されるのに加え、中世に至る歴史が堕落させたキリスト教を本来の姿に戻そう、という強固な宗教観が明確に示されている。これを直接的な契機としてワーグナーに開眼したブルックナーは、65年にミュンヘンで初めて面会を果し、〈トリスタンとイゾルデ〉の上演を聴いた。遅咲きのブルックナーが交響曲作曲家としてのスタートを切ったのは、この直後のこと。翌66年(42歳)4月に〈第1番〉を完成。73年(49歳)には完成済みの〈2番〉と作成途上の〈3番〉のスコアを持参して祝祭歌劇場建立中のバイロイトにワーグナーを訪ね、〈3番〉の献呈を受理されている。

1870年代になると、ワーグナーの才能が飛び抜けているということは誰しもが認めるところとなっていたので、多くの人物が接触を試みようとした。その中には、後に敵となる、ブラームス、ニーチェ、ハンスリック等も含まれていたが、ワーグナーがもし権謀術策を優先させようとしたなら、筆や弁の立つニーチェやハンスリックを陣営に取り込んでおこうと判断を下したに違いない。このあたりを詳述する場ではないので結論だけを述べておくと、政治的には、ほとんど役に立たないと思える朴訥な作曲家の卵に対し、譜面だけで「ベートーヴェンに比肩すべき交響曲の作曲家を一人だけ知っている。ブルックナーだ」と評価し、目をかけたことは、重視すべきだ。

歴史を一気に〈7番〉までスキップしよう。この曲がワーグナーの死に深く関わっていることはよく知られているが、その推移はおよそ以下の通りである。

作曲が開始されたのは〈6番〉の完成直後の1881年(57歳)9月23日。翌82年7月、ブルックナーは〈パルジファル〉の初演を見にバイロイトを訪れた。リハーサル中に激しく拍手をしてワーグナーにたしなめられたり「あなたの全交響曲を、私が演奏します」という言葉に感激したり、といったエピソードが残されている。これが結果的に二人の最後の会見となった。

その年のうちに先ず二つの奇数楽章のスコアが完成する。最初は第3楽章スケルツォ(10月16日)、次が第1楽章(12月29日)。ブルックナーは〈7番〉になって、初めてワーグナーが〈ニーベルングの指環〉のために考案した新楽器ワーグナー・テューバ(ホルン奏者が吹く中音域のテューバ)を使用することにしたのだが、先に完成された、この二つの楽章に出番はない。そして、翌83年に持ち越された第2・第4楽章で使うことになったのだが、これが後発の二つの楽章に、師と仰ぐワーグナーへのオマージュとしての意味あいを与えることになるのである。

ブルックナーはワーグナーの死の予感のなかで第2楽章の筆を進め、スケッチは83年1月22日に終了するも、3週間後の2月13日、ワーグナーはヴェニスで死去。翌日の午前中、勤務先のウィーン大学で訃報を聞いたブルックナーは号泣したという。

翌84年12月30日、ワーグナーの生地ライプチヒでニキッシュの指揮で行なわれた世界初演は、ブルックナー自身が「終了後、拍手が15分間続きました」と述べたような大成功となった。勝利の進軍は、レヴィ指揮のミュンヘン初演(85年3月10日)、リヒター指揮のウィーン初演(86年3月21日)と続き、交響曲作曲家としての名声は、一挙に高まったのである。

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