ヘルマン・ベーンによる二台ピアノ版《復活》
昨年の5月の話となるが、筆者はピアニスト大井浩明氏の《復活》二台ピアノ版の公演に際してプログラムの文章を執筆したのだが、その時の筆者はちょうど引っ越し準備の真っ最中だったため、手持ちの本を参照することが出来なかった。それらはすべて段ボールの中に入ってしまったからである。そのため、この《復活》二台ピアノ版の編曲者であるヘルマン・ベーンについて十分に調べきることが出来なかったという心残りがあるのだが(この時の筆者の文章は大井氏のブログに掲載されている。インターネット上で「大井浩明 復活」のキーワードで検索すると一番最初に出てくるので、ご興味のある方はご覧頂けるようになっている)、そんなことを思いつつ引っ越しも一段落付き書架の整理が終わったところで、整理の終わった書架から何気なくマーラーに関する本を一冊取り出してページをめくったところ、真っ先に「ヘルマン・ベーン」の名前が目に飛び込んできて、ひどく拍子抜けしたのだった。ヘルマン・ベーン。マーラーの伝記の中では特に目を引く最重要人物というわけでは必ずしも無いのだが、ベーンに注目してマーラー関連の書籍を読むと、割と頻繁にその名前が出てくるということに遅ればせながら気がついたのだった。その名前はリヒャルト・シュトラウスとマーラーの手紙の中でも登場し、リヒャルト・シュトラウスと知り合いだったことも分かる。
ヘルタ・ブラウコプフ編のマーラーの書簡集(邦訳は『グスタフ・マーラー 隠されていた手紙』中川原理訳、音楽之友社)の冒頭には、このベーン宛の手紙が何通か収録されている。ハンブルクの裕福な家に生まれたベーンは、法律を学びながら音楽も本格的に学ぶようになる。ブルックナーに弟子入りし、ブルックナーの交響曲第7番の二台ピアノ版への編曲を手がけている。ベーンは他の色々な作曲家の作品のピアノ編曲も手がけており、インターネットの楽譜サイトであるIMSLP(ペトルッチ)には、このベーンの編曲作品が実に15曲も収められている。それだけではなく、ベーン自身作曲も手がけ歌曲集やピアノソナタなどを残しているのだが、それらはISLMPには収録されていないようである。
ベーンは1859年生まれでマーラーは1860年生まれ。ほぼ同い年となる二人は共に音楽を学びつつ友情を深めたようであるが、ヘルタ・ブラウコプフによると裕福だったベーンは職業という制約に就くこと無く音楽への興味を深めることが出来たという。ベーンはマーラーの《復活》の総譜を見て興味をそそられピアノ編曲を手がけたようなのだが、このベーンの二台ピアノ版《復活》の楽譜はベーンの資金援助により1896年に出版されている。これはオーケストラによる《復活》初演はもちろん、マーラー自身によるオーケストラの総譜の出版よりも前のことであった。ベーンは《復活》初演の際にも多額の資金援助を行っており、《復活》が世に出るにあたって極めて大きな役割を果たした人物であると言えるだろう。