マーラー (1860~1911) 交響曲第2番ハ短調 《復活》

 

《復活》作曲の経緯とベートーヴェンの壁

マーラーの二作目の交響曲となる《復活》は、非常に複雑な道筋を経て完成されたものだった。まず、第1楽章は、そのプロトタイプとなる作品が交響詩《葬礼》の形でまず完成されている。この楽譜の表紙には《葬礼》の題名とともに「交響曲ハ短調」と書かれているのだが、この「交響曲ハ短調」の文字は線で消されている。この《葬礼》の完成が1888年9月のこと。この直後の10月にマーラーはブダペスト王立歌劇場の音楽監督に就任し、指揮者としての出世街道を歩むことになる。ここで注目すべきは《葬礼》完成の時点でマーラーの交響曲第1番となる作品は完成されていたのだが、それは交響曲とはされずに交響詩と呼ばれていたということ。ブダペストでマーラー自身の指揮により1889年11月20日に演奏された作品がそれである。つまり、《葬礼》はマーラーの最初の交響曲の一つの楽章として構想されたものなのである。しかし一旦、マーラーはこの《葬礼》を交響曲として完成させることを断念している。それは、後に続く楽章が作曲出来なかったためであった。

そうこうしていうるうちに、ブダペストでマーラー指揮で演奏された交響詩は形を変え、1893年10月27日、ハンブルクでマーラーの指揮で演奏されている。この時点でこの曲は「交響曲様式による音詩《巨人》」と呼ばれており、《巨人》という名称はついたがいまだ交響曲ではなかった。そして翌1894年6月3日のワイマールにて、やっとこの曲は「交響曲《巨人》」として演奏される。(ただしこの時は未だ《花の章》を含む5楽章版としてであり、4楽章版の交響曲となるのはもうちょっと先の話である。)指揮はもちろんマーラーによるものだった。こうしてマーラー初の交響曲がやっと誕生したのだが、この時点で《葬礼》はお蔵入りとなったままだった。マーラーが《葬礼》を交響曲の楽章の一つに据え、他の楽章を作曲し始めるのは1893年の夏期休暇の時とされている。1893年の間に《葬礼》を含む最初の四つの楽章はほぼ完成していた。ただここまで来て、マーラーは大きな壁に直面することとなる。
第1楽章となる《葬礼》は単体でも十分に聞き応えのある作品として出来上がっていた。しかも音楽は暗く、重々しい。これを交響曲とするからには、最終楽章でこの「総括」をする必要があった。しかし、そこでマーラーは行き詰まってしまう。《葬礼》で展開した世界を収拾するはずの最終楽章が、完成出来なかった。最終楽章において、それまでの楽章での展開をまとめあげた上で交響曲という一つの完結した世界が完成する筈なのであるが、それがどうにも思いつかなかったのである。

交響曲はベートーヴェンによって、作曲家の創作の中心となるべきものとなった。それは音楽作品でありながらも、物語性や思想性までも感じさせるものでなければならなかった。それは人々がベートーヴェンの交響曲にそのようなものを感じ取り、それを後に続く作曲家達に対しても要求した為であるが、前述の通り、マーラーはなかなか交響曲の作曲に踏み切らなかった。それはベートーヴェン以降の交響曲というプレッシャーが重すぎた為でもあったが、交響曲が古くさいジャンルとされ交響詩という形式が新しい先駆的なものとされていたことも理由として挙げられるだろう。リスト創始の交響詩という形式は、交響曲以上に音楽に物語性を強く持たせたもので、文学的・絵画的な性格をも強く持ったものであった。この交響詩という形式は、文学に対する憧れが一際強かったロマン派の作曲家に大きな影響を与え、ベートーヴェン的な交響曲の作曲からの逃避もあり、多くの作曲家は交響曲ではなく交響詩の作曲を手がけるようになる。マーラーが最初《巨人》を交響曲ではなく交響詩としたのも、そのような時代の潮流の中でのことであった。しかし、マーラーの興味は交響曲という形式に向かっていったようである。この時点でマーラーの作品の構想はそれまでの交響曲という形式を遥かに超えるものであったので、当然、マーラーの交響曲は、交響曲という形式を刷新する試みとなっていく。革新者マーラーの誕生である。しかし、最初からことはそう容易く運ばない。ベートーヴェンの重しがマーラーにものしかかる。最後の最後で、それまで展開した物語と思想の収拾を図らねばならない。それが出来ないとベートーヴェンを受け継ぐ交響曲とは言えなかった。多くの先駆者が交響曲の創作において挫折したのはこの点においてにだったが、マーラーもここで躓いたのだった。

 

タグ: マーラー

関連記事