18世紀末から19世紀初頭にかけて、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンによって今に続く形で交響曲というジャンルが確立する。4楽章、ソナタ形式、主題提示と展開。交響曲の構造は論理的に構築されるべきものとなる。特にベートーヴェンは、それに加えて、オーケストラによる単なる合奏曲であった交響曲を思想性や哲学的な意味をも聞く人に感じさせるレベルにまで「格上げ」する。交響曲第5番において短調に始まり同じ調の長調で華々しく終えることによって「暗から明」「苦悩から歓喜へ」という強烈なドラマ性を交響曲に与えることにベートーヴェンは成功したのだが、これは当時の時代背景と決して無縁ではない。フランス革命直後、動乱のヨーロッパ。身分社会は崩れ、人々は自由と平等を求めて立ち上がる。そのような時代精神がベートーヴェンの交響曲の背景としてあるのだが(この一つの結論が第九である)、このベートーヴェンの打ち立てた交響曲のモデルは後に続く作曲家にとっては非常に厄介なものとなった。ただ、19世紀も後半になるとフランス革命の理想も薄れ、社会の不条理や軋みといったものがそこかしこに見えるようになってくる。交響曲もそういった社会の動向とは無縁ではなかった。ブラームスの交響曲第4番(1885年)やチャイコフスキーの交響曲第6番《悲愴》(1893年)といった勝利の凱歌に終わらない、むしろ悲劇を湛えたまま終わる交響曲は既にマーラーの時代には生まれていた。しかし、マーラーが当初書き続けていた交響曲は自然や神への讃歌や闘争の末の勝利という「明」で終わるものだった。
こんなマーラーが、交響曲第6番では苛烈な闘争を経ても最後には勝利には到達しないという交響曲を作曲するに至る。それは、ベートーヴェンへの反逆であった。ブラームスやチャイコフスキーよりもさらに徹底して、マーラーは第1楽章から熾烈なる闘いを入念に描く。その末にあるのはベートーヴェンの場合は勝利であったが、マーラーの交響曲第6番では、敗北であった。しかもハンマーという強烈な打撃に襲われての。交響曲というジャンルで表現される闘争の末の敗北。つまりそれは交響曲の存在意義を反転させることになるのだが、そのためには、マーラーはベートーヴェンが打ち立てた交響曲の形式に一旦立ち戻る必要があったのである。従来通りの、破天荒な形式で悲劇を描いてもベートーヴェンの域には到達しない。ベートーヴェンが確立した形式に則って、その逆を描く。このマーラーの反逆により、交響曲の表現領域は大幅に拡張される。その格調した交響曲というジャンルを受け継ぎ、それを徹底的に使い切ったのがショスタコーヴィチである。マーラーが現代音楽の先駆者とされることが多いのは、技法的な理由だけではないのだ。
この反逆は当然、非常にエネルギーを必要されることであった筈だ。交響曲というジャンルに新しい、今までとはまったく正反対の意味を付加するのだから。ここまでくると、マーラーが生涯の絶頂にあると言えるこの時期に、なぜこのような無慈悲なまでに否定的な音楽を作曲したかが理解できるであろう。心身ともに万全の状態でないと、このような巨大な反逆はとうていなし得ることが出来ないからだ。マーラーの妻アルマは後年、回想録の中で交響曲第6番の終楽章のことを「暗い運命の予告」と表現している。それは、確かに真実であっただろう。だが、近代的価値観を纏った人間が作った一つの芸術作品が、一つの意味だけにくくれる訳が無い。私たちにとっての真実は何か。それは模索し続けるしかないのであろう。マーラーが自らの作品を常に模索していたように。ベートーヴェンを反転させることに、マーラーはここで見事に成功した。この後の交響曲第7番が、ベートーヴェン的な交響曲の見取り図では理解しにくいのも当然であろう。ベートーヴェン的なものとは別のロジックで交響曲を作曲したのだから。これ以降、マーラーの交響曲はさらなる変容と進化を遂げることとなる。マーラーにとっても、交響曲の歴史にとっても、この交響曲第6番は真に一つの転換点となる作品であった。