この曲は現在に至るまで色々な話題を提供し続ける曲である。まず、交響曲第6番には第2楽章と第3楽章の順番の議論が絶えない。詳細は別稿に譲るが、それはマーラーがこの二つの楽章の順番について悩み続けたことから始まっているのだが、その事実は、この二つの楽章の配置がどちらであっても説得力のある感動的な演奏が可能なことを示しているともいえる。事実、近年はアンダンテ楽章を先に配置する演奏も多く、そういった演奏の中から名演も生まれている。問題となるべきは、単に楽章がどちらか、ということではない。なぜそうしたか、であろう。本日は第2楽章スケルツォ、第3楽章アンダンテで演奏する。
また、ハンマーについての話題も当然ある。これは初演当初から話題になったことであり、それだけインパクトが強かったことを物語っている。マーラーがどうやってこのハンマーの使用という規格外のことを思いついたのかは明確ではない。ワーグナーの《ラインの黄金》における雷神ドンナーによるハンマーの一撃は非常に印象的なものであり、これがマーラーのヒントになった可能性もおおいにある。ただ、やはりハンマー、しかも巨大なハンマーを交響曲に使うというのは前代未聞のことであり、これはそれだけマーラーの表現意欲が凄まじかったことを物語っているが、ハンマーをどう扱うということも演奏の全体を左右する重要なことなので、これもまた楽章の順番と同じく慎重に扱わなければならないことであろう。このハンマーの使用は後に続く作曲家に影響を与え、ベルクは《三つの管弦楽曲》でハンマーを使用しているが、これはまさにマーラーを直接受け継ぐもの。ロシア革命後のロシア・アヴァンギャルドの時代、ソ連となったロシアではモソロフが《鉄工場》でハンマーを使用しているが、金属的なサウンドで工場のハンマーを模したその使用法はマーラーやベルクのそれとは明確に異なる。むしろワーグナーのハンマーを直接に受け継いだのは、マーラーやベルクではなくモソロフだったかもしれない。
最後にもう一度ヴィスコンティへ。『夏の嵐』には原作となった小説があるのだが、ヴィスコンティは映画化にあたってある登場人物の名前を原作から変えている。映画化の際に原作から設定を変えるというのは、ヴィスコンティにとってはごく当たり前のことで、例えば有名な《ベニスに死す》、トーマス・マンによる原作の主人公は小説家であるが、ヴィスコンティはそれを作曲家に変更している。それも役者の風貌をマーラーを彷彿とさせるものにまでしているのだ。これは意図するところが明確であるが、ヴィスコンティは『夏の嵐』でもこれと同じような改変を加えているのだ。主人公が恋に落ちる相手であるオーストリア軍の将校フランツは、原作のいささかイタリア風な名前からフランツへと名前を変更されている。その名は、マーラー。フランツ・マーラーという名であった。そう、ヴィスコンティは、その映画の中で、マーラーという男が処刑された後にあのリズムを小太鼓に演奏させているのだ。ひょっとしたら、『夏の嵐』はヴィスコンティによるマーラーの交響曲第6番の映像化なのかもしれない。