嵐の中の出発
マスネは自伝において1848年2月20日のことを「運命的な日」として「忘れることが出来ない」と記している。ジュール・マスネは1842年5月12日にフランス南東部のロワール県の中心都市サン・テティエンヌで生まれた。母親がピアノ教師をしており、その母親の手引きで初めてマスネがピアノをさわったのが、冒頭の日のこと。ヨーロッパではナポレオンの没落後に確立されたウィーン体制がちょうど終わりを告げようとしていた頃で、フランスでは2月24日に国王ルイ・フィリップが退位し七月王政が終焉することとなる。そんな嵐の中、少年マスネは初めてピアノに触れたのだった。程なくマスネは抜群の音楽的才能を示すようになり、11歳でパリ音楽院に入学する。オペラで成功していたアンブロワーズ・トマに作曲を師事、21歳でフランス作曲界の登竜門となるローマ賞を受賞。審査員の一人だったベルリオーズが特に熱心にマスネを推したという。同じくローマ賞の審査に加わっていたフランソワ・オーベールはベルリオーズに次のように語ったらしい。「この小僧は、経験を積みすぎないように気をつければ、かなりのところまでゆくだろう」と。オペラの第一作目も好評だった。オーベールの予言はともかく、音楽家として順風満帆な出発であった。
アルザスという土地
アルザスとはフランスとドイツの国境地帯で、その所属はある時はドイツ、またある時はフランスというふうに、ドイツ・フランス間との戦争の度にその帰属は変わってきた。地理的にはフランスやスイスとの境に位置し、いにしえには「ローマ世界」と「ゲルマニア世界」の境にもなった。ライン川が南北を貫き、「ヨーロッパの十字路」、ヨーロッパ世界ののちょうど中心に位置する地域だと言って良いだろう。もともとはドイツの地方都市だったが、当時、様々に分かれていたドイツ諸国の中でスイスのような中立の地位を保っていた。政治的・宗教的にも、様々な勢力が細かく分布していて、決定的な優位を持つ勢力が存在しなかったのが特徴と言えるだろうか。1648年、アルザス地方は三十年戦争の終結とともにフランス王国に併合され、アルザスの中心都市だったシュトラスブルクは中立政策もむなしく、1681年に太陽王ルイ14世が治めるフランス王国の一部となった。これ以降、約200年の間に渡って、アルザスはフランスの一部となる。とはいえ、言語的にも文化的にもフランスとは異質であり、強い中央集権的な性格を持つフランス王国の中でも数々の特権や自治が認められ、フランスの中でも特殊な地位を得るようになる。そんな歴史は、アルザスに住む人に、フランス人でもなくドイツ人でもない「アルザス人」というアイデンティティを与えることとなった。アルザスの中心都市ストラスブールについて書かれた本を読んでいたら、なるほどという記述があったので引用する。普仏戦争後、アルザスは隣接するロレーヌ地方と併せてエルザス=ロートリンゲンという邦国としてドイツ帝国の版図に組み込まれることとなるが、これについて「誤解を恐れずにいえば、フランス共和国‐エルザス=ロートリンゲン‐ドイツ帝国の三者の関係性は、かっての中国‐香港‐英国のそれ(1847~1997年)に比定するのがよかろう」と。(内田日出海『物語 ストラスブールの歴史』中公新書、2009年より。)