マスネ (1842~1912) 組曲第7番 『アルザスの風景』

「風景」作曲家からオペラ作曲家へ

マスネは管弦楽曲を7つ作曲したが、その2番から7番までが「○○の風景」という題をつけられている。この《アルザスの風景》は最後の7番目の組曲となる。マスネがアルザス地方を訪れたことがあるかどうかは分からなかったのだが、この《アルザスの風景》は、いくつもの「風景」を送り出したマスネの「風景」最終作となり、この後、マスネはオペラの分野で大当たりをし、この時代のフランス・オペラの第一人者となる。交響曲といった抽象的な音楽ではなく、情景・物語的な音楽を得意としてそういう音楽を多数作曲した後にオペラで大当たりを取る、というのはリヒャルト・シュトラウスとも共通している。この当時のクラシック音楽の作曲家が取る出世コースの典型的な一パターンと言えるかもしれない。(最初からオペラに向かったワーグナーはこのパターンの特殊形、オペラには見向きもせず交響曲の復権に取り組んだブラームスはその対極と言えようか。)また、交響曲という形式は、この当時のフランスでは「ドイツ的」な音楽とされ、サン=サーンスが交響曲に取り組んだ際に「フランス人が交響曲を作曲する必要は無い」という批判さえ出た程のものだった。リヒャルト・シュトラウスは長い間、交響曲に要求される理念を嫌った為に交響曲の作曲に向かわなかったのだが、マスネの場合はどうだったのだろうか。マスネ本人はこのように語っている。「私は、自分には交響作家としての気質はないと思っている。これは私の性分じゃないし、絶えず、自分の考えを展開したり分割したり追求したりするなんて退屈なことだ」ここでも、マスネとリヒャルト・シュトラウスで共通点が見られるようである。マスネは1878年にパリ音楽院の教授となり、フランス・オペラの大家として、またパリ音楽院では18年もの長きの間その職に就き、シャルパンティエやピエルネなど、多くの作曲家を世に送る出すこととなる。作曲家としてものの見事な生涯なのだが、あまりにも時流に乗りすぎたというか、時流そのものとなってしまった故に、新しいものを生み出さず、時代の流れからは取り残されることになってしまった。オーベールの予言が思い出される。マスネの後の世代で、1902年に初演された歌劇《ペリアスとメリザンド》でフランス・オペラに革命をもたらすこととなるドビュッシーは、マスネのことを若干の揶揄を込めてこんな風に述べている。「マスネさんは、ときどきこういうことをして、実に上手に夢の魅惑を見せつけておいてから、せっかくのその夢をわれわれから奪ってしまう人だ。そういう無惨なことをするのに、彼は何か雑音を使うのだが、これがまた聴衆の喝采を浴びる。そんな粗暴な手を使わずとも、大喝采を浴びるだろうに」(『音楽のために ドビュッシー音楽論集』杉本秀太郎訳、白水社、2002年より。)

アルザスの「運命」

普仏戦争後、アルザスはフランスにとっては「失われた土地」となり、フランス・ナショナリズムと対ドイツの機運の原動力となっていく。この一つの帰結として第一次世界大戦があるのだが、アルザスはフランスとドイツの間にあって翻弄される運命にあった。優遇はされつつも、相手に対するショーウインドウの役割を担わされ、その範囲での優遇。しかし、戦争が終わった際に中央政府は真っ先にアルザスを相手に差し出すのだった。普仏戦争が終わった際も、パリの政府はドイツとの講和の際に躊躇なくアルザスをドイツに引き渡す。そして、第一次世界大戦に際しアルザスの人々はそれぞれの理由からフランス、もしくはドイツに加担するが、それぞれの先でドイツ野郎、もしくはフランス野郎と呼ばれ侮蔑の対象となる。揺れる帰属。シュトラスブルクの生まれでフランスの名指揮者として知られるシャルル・ミュンシュは、第一次世界大戦にはドイツ兵として従軍している。戦場から帰ってきたら故郷はフランスになっていた。一旦はドイツ国籍を選択するミュンシュだが、のちにフランス国籍を取得し、フランスの指揮者として名声を博するようになる。

というようなことは、音楽からは全く聞こえてこないし、聞く必要もないことである。ひょっとすると、マスネ当時のフランス人よりも現代の日本人の方が、この音楽の魅力を素直にシンプルに享受出来るのかもしれない。ここに書いた通り、「最後の授業」はかなりフランスの中央集権的イデオロギーから書かれた作品で、それが故に現代の日本の教科書では掲載されなくなったようである。《アルザスの風景》を楽しむには、むしろ「アルザス!アルザス!」をイメージする方が良いかもしれない。最後に「アルザス!アルザス!」の最後の一節を引用することとしよう。嵐の翌日に見た光景でドーデはこの短編の筆を終えている。「ダヌマリ街道の、かき根の角で、みごとな麦畑が雨とあられに打たれて傷つけられ、穂先を切られ、なぎ倒されて、折れた茎を四方へ向けて地上に交さしていた。重く実った穂は泥の中で実をこき落とされ、空飛ぶ小鳥の群れはこの全滅の収穫を襲い、濡れたわらのくぼみの間を飛び回って、麦粒を周囲に飛ばしている。太陽の光り輝く澄んだ大空の下で行われるこうした略奪の惨めさよ… 荒廃した畑の前に立った、やせた大きな、背中の曲がった、古いアルザス風の衣服を付けた百姓が、この有様を黙々と見守っている。面には深刻な苦痛が表れていたが、また同時に何か忍従と平静、あるおぼろげな希望が見られた。それはあたかも、横たわった穂の下にある彼の土地はいつも変わらず生き生きと肥えて忠実であり、土地がそこにある限り失望落胆はすべきでないと彼は考えているようであった」

普仏戦争から約50年後、レナード・バーンスタインが慎ましくもささやかな幸せを享受しつつもアメリカ合衆国の最下層に位置する両親の元に生を受けたその頃、リヒャルト・シュトラウスはヨーロッパで名声の頂点にあった。

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