マスネ (1842~1912) 組曲第7番 『アルザスの風景』

普仏戦争という因縁と『月曜物語』

マスネが《アルザスの風景》を作曲したのは1870年の普仏戦争にフランスが敗北してから10年ほど経った1881年。普仏戦争ではフランスはプロイセンに敗北、この戦争の勝利を契機にプロイセンはそれまで幾つかの国に分かれていたドイツを統一しドイツ帝国を成立させる。翻ってフランスは、皇帝ナポレオン3世が戦場で捕虜になり、パリまで進軍してきたプロイセン軍はパリのベルサイユ宮殿でドイツ帝国の成立を宣言するという屈辱に見舞われる。この屈辱は第一次世界大戦の遠因の一つとなるが、普仏戦争の敗北はフランスの音楽界においてもナショナリズムが勃興する契機となった。「アルス・ガリカ」という音楽団体が結成され、特にオーケストラ作品においてドイツ音楽に著しく遅れをとっていたドイツに負けじと、フランス人作曲家が数多くのオーケストラ作品を作曲しだしたのはサン=サーンス《オルガン付き》の時に解説に書いた通り。マスネの《アルザスの風景》もそんな中の一曲である。特に、それまでフランスに属していたアルザスがドイツ帝国の一部となり、それを悲しんだフランス国内でマスネの《アルザスの風景》は大いに受けたのだった。

フランスがアルザスを喪失した後、フランスでは反ドイツの気運が高まり、フランス・ナショナリズムを高める機運が盛り上がっていく。フランスの小説家ドーデの「最後の授業」もその流れにある。短編小説「最後の授業」は、一時期まで日本の教科書にも多く掲載されていたので、ご存知の方も多いかもしれない。「アルザスの一少年の物語」という副題が付けられたこの作品は、少年フランツがある晴れた日に学校に急ぐ場面から始まる。遅刻したフランツ少年だが、遅れて教室に入ってきたフランツをアメル先生は叱らなかった。そしてフランツは教室に子供たちだけではなく、村の大人達が大勢いることに気がつく。彼らの前で厳かにアメル先生が優しく告げる。「みなさん、私が授業をするのはこれがおしまいです。アルザスとロレーヌの学校では、ドイツ語しか教えてはいけないという命令が、ベルリンから来ました…新しい先生が明日みえます。今日はフランス語の最後のおけいこです。どうかよく注意してください」作者のアルフォンス・ドーデは1840年生まれ。マスネとはほぼ同年代である。普仏戦争に従軍し、パリの篭城戦と続くパリ・コミューンの内乱まで経験している。ビゼーが音楽を付けた戯曲『アルルの女』の作者でもある。『アルルの女』が1782年の作で、「最後の授業」を含む短編集『月曜物語』は1871年から1873年にかけて新聞に連載されたもの。連載は普仏戦争の終結直後から始まっており、この当時のフランスの雰囲気を今に伝えるものの一つとして考えられるだろう。(ドーデの文章の引用は『月曜物語』桜田佐訳、岩波文庫、1936年より。)

アルザスは誰のもの?

そう。少しフランス側に寄りすぎているのだ。最初に述べた経緯から、アルザスの人たちにとって、フランス語は母国語ではあるが母語ではない。アルザスでは(地域によって多少のばらつきがあるが)アルザス語が話され、アルザス語はドイツ語に近い。フランス語は行政で使用される言語だったり、フランスで活動するには不可欠の言語だった。それ故、学校でフランス語を学んでいたのだった。そもそも、アルザスはもともとドイツだったという経緯から、公共インフラにはパリの中央政府から多額の資金がつぎ込まれていた。当時のフランス国内においても、アルザス地方のフランス語の識字率は高かった。大学にも優秀な教授陣が送り込まれ、ドイツに対するフランスの優位を誇るショーウインドウの役割を担わされる。そしてこれは、普仏戦争後にアルザスがドイツ領になった際も、フランスとドイツの立場を逆転してまた再現されることとなる。ところがここで、一つ興味深い事実がある。ドイツとなったアルザス地方においても、フランス語の学校教育は続けられていたのだ。アルザスにおいてフランス語は生活に密着しており、生活だけではなく、文化活動においても必須のものとなっていた。確かに行政言語はドイツ語となり、ドイツ語文化圏ではドイツ語が教えられるようになった。しかし、フランス語文化圏においてはフランス語の教育が続けられ(『最後の授業』のフランツ少年はドイツ語文化圏に属していたということになる。)、シュトラスブルクの高級サロンでは相変わらずフランス語で会話がされていたのだった。アルザス地方の人々は、フランスとドイツから「良いとこ取り」をしていたのだった。1945年、ナチス・ドイツの敗北によりアルザス地方はフランスとなり、それが今まで続く。この時、フランス治下に入った当初はドイツ語の教育が禁じられたが、アルザスの人々はこれに強い抵抗を示したという。

というような話は、曲の背景としては重要かもしれないが、曲を鑑賞する際に必須となるものでもない。音楽そのものは、それぞれの曲に付けられた題名と、その音楽から受けるイメージ、人々の生活、祈り、酒場、といった個々の情景を想像するだけで十分に楽しめるものとなっている。それは「フランス人」ドーデとマスネがイメージしたアルザスであり、そこで流れる民謡は、ドイツ人のブラームスが作曲した《ハンガリー舞曲》が実際のハンガリー音楽からは微妙に離れたものになっているように、もしかしたら実際のアルザス民謡とは違うかもしれない。とはいえ、《アルザスの風景》で音楽で描写される風景や酒場の情景に、フランス・ドイツ・アルザスで大きな違いがあるものではないだろうし、フランス・ドイツそしてアルザス固有のものが混ざり合って共存している風景が、アルザスの風景なのであろう。「最後の授業」を含むドーデの短編集『月曜物語』には「アルザス!アルザス!」という短編がおさめられている。これはドーデがアルザスを訪れたときの簡単な旅行記のようなもので、風景の美しさ、勤勉な人々、日曜の朝の教会で祈りを捧げる人々の様子が、素直な筆致で描かれている。マスネの《アルザスの風景》はこれを源イメージとしたものかもしれない。また、マスネも普仏戦争に従軍しており、《アルザスの風景》に描かれるフランス軍の帰営ラッパの様子は、マスネの実体験によるものかもしれない。ただ、マスネが普仏戦争でどこに赴いたかまでは調べがつかなかったのだが、アルザス地方ではないのではと考えている。アルザス地方であっても、《アルザスの風景》で描かれたのどかなフランス軍楽隊の様子はアルザスでは経験しなかった筈である。7月19日に開戦した普仏戦争は開戦以来、プロイセンの一方的な優勢のもと進んでいく。8月初旬、好調な攻勢の勢いで、ドイツ軍はアルザス地方の都市に攻撃を仕掛ける。特にストラスブールでは篭城戦となり、多くの砲弾がストラスブールの街に降り注ぎ、一般市民の被害も相当なものになった。《アルザスの風景》で描かれる軍楽隊は、あくまで平和の時のものであり、マスネはこれを経験しなかったか、経験したとしても、従軍した最初のほんのひと時、アルザスではない別の地方でのことだったかもしれない。

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