安定した地位
ドミトリー・ドミトリエヴィチ・ショスタコーヴィチ、57歳の時の作品。1963年作曲。ショスタコーヴィチは1975年に死去するので、既に晩年に入りかけた頃の作品であるといえる。その作曲家としてのキャリアにおいて、幾度と無く政治からの圧力を受け続け何度も苦汁を飲んだショスタコーヴィチであったが、この頃になると社会も一応の安定を見せたこともあり、西側にまで名声が届く大作曲家としての地位が確立し、生活もやっと平穏なものとなった。
様々な病が身体を蝕んではいたが、「立ち位置」を探ったり隠れたメッセージを感じさせる曲を作る必要が以前程には無くなったこの頃の作品には、純粋に作曲技法を展開し、それを作曲家自身が楽しんでいるといった風情の作品が多い。《ロシアとキルギスの民謡の主題による序曲》も、そんな作品の一つである。また、この年はショスタコーヴィチの中でも最大の問題作の一つ、交響曲第13番《バービィ・ヤール》の初演の翌年でもある。《バービィ・ヤール》の反動もあっただろう。純粋に音楽の仕掛けを楽しむことができる、短い中にもショスタコーヴィチらしい機知に富んだ作品である。
作曲の経緯
多民族国家ロマノフ朝ロシアの版図をほぼそのまま引き継いだソ連は、自らもまた多民族国家としての歩みを進めることになる。作曲当時、ソ連社会の名士となっていたショスタコーヴィチは1962年にソ連を構成する共和国の一つ、クルグズ共和国に招かれる。ロシア帝国への自由加盟100年を祝う式典だった。クルグズ共和国は中央アジアに位置し、中国と国境を接する。ロマノフ王朝時代、この地域をロシア帝国は版図に組み入れたのだが、当然、ロシア帝国の併合は武力を伴うものであった。しかし、多民族の共存が存在意義の一つとなる国家、ソ連にはその事実から通り過ぎる必要があった。それで「自由加盟」となる訳だが、ショスタコーヴィチはそういう事情に頓着した様子は全くない。純粋に、その土地で触れた人々の歌や踊りに創作意欲を刺激されての作曲である。そもそもショスタコーヴィチは政治的な人間では無かった。あれほどまでに最高権力者と渡り合いつつも何とかやりすごしたのだから、政治的センスが皆無であったということは無いし、また若い時にはロシア革命の指導者レーニンに熱中したこともあったが、しかしどう控えめに言っても、ショスタコーヴィチは政治的なものにはほとんど関心の無い人間であったと言えるだろう。《ロシアとキルギスの民謡の主題による序曲》も、純粋にクルグズスタンの音楽に惹かれての作曲であった。
なお、クルグズあるいはクルグズスタンは日本ではキルギスあるいはキルギスタンと呼ばれることが一般的である。今回の曲名の表記も通例に従ってキルギスの表記を使用している。
全曲を通して8分程しか無いが、めまぐるしく様相が駆け巡っていく。導入部の民謡風の旋律から一転、鮮やかな舞曲へ。メロディアスな旋律はロシア風、変拍子で舞曲風な箇所はクルグズ風、なのであろうが。しかし、全曲を通して両者の目立った対比はあまり感じられない。むしろ、両者とも完全に素材として扱われ、同じようなショスタコーヴィチ風の音楽に仕上がっていると言えるかもしれない。曲は盛り上がりを見せた後、一旦収まり、そしてそのまま終結に向けて全力で駆け抜けていく。
何かと「二重言語」や「イソップ言語」などと裏読みされがちなショスタコーヴィチの音楽であるが、力強さと華々しさに彩られたこの曲は、そういった言葉を抜きにしても十分楽しむことが出来る。いや、むしろそれが本来の楽しみ方なのだろうか。重苦しい顔つきとは違った、ショスタコーヴィチのまた別の表情を見せてくれる一曲である。
(中田れな)