ショスタコーヴィチとバレエ
レニングラード音楽院の卒業制作として作曲した交響曲第1番の大成功によって名を知られる存在となったショスタコーヴィチは、しばらく舞台や映画音楽を中心に活動することとなる。舞台監督や映画監督の要求する音楽を極めて短時間に、しかも高い質で提供することが出来たショスタコーヴィチは、監督達にとって非常に貴重な存在となった。映画音楽はこの後も生涯にわたってショスタコーヴィチが取り組み続けたジャンルとなり、この時期に出会った映画監督のコージンツェフの作品にはショスタコーヴィチは晩年近くになった時期にもタッグを組み、ショスタコーヴィチが音楽を付けたコージンツェフ監督の1971年の作品『リア王』はソ連映画の傑作の一つとして知られている。しかし、残念ながらバレエの分野ではショスタコーヴィチはそのような幸運な出会いを得ることが出来なかった。
ショスタコーヴィチがバレエ音楽で活躍することが出来なかった理由の一つに、この時期のソ連のバレエ事情があるだろう。若き芸術家にとってロシア革命は芸術の革命でもあり、新しくなっていく社会とともに、芸術もまた新しくなっていった。ロシア・アヴァンギャルドと呼ばれるこの時代、ロシアには新しい芸術の潮流が数多く生まれている。しかし、革命後の新しい社会を表現するのには革命前の旧社会との結びつきが強すぎた、ということなのだろうか、バレエにはめぼしいものが生まれていなかった。そこで、新しいスタイルのバレエが作られることなった。主人公はもちろん愛国者か労働者。ショスタコーヴィチが初めて手がけたバレエ『黄金時代』のストーリーは、ソ連のサッカーチームが西側の都市に試合に行き西側のブルジョワの妨害も乗り越え試合に勝利するといったもの。この官製ストーリーになるまでには最初の構想から様々な方面からの横槍がありの二転三転で、ショスタコーヴィチにとっては全く納得出来ないものであった。とある場面のために音楽を書いても、その場面は全く別のものになる。そうなるとショスタコーヴィチの最初の構想とは全く違うものとなってしまう。そういったことの連続で、次第にショスタコーヴィチは他人の手が入る舞台作品の仕事を断るようになる。この頃に作曲を開始した歌劇《ムツェンスク群のマクベス夫人》はショスタコーヴィチが自らの意思で原作も選び、誰かからの依頼を受けることもなく書き始め、まったく自由に書きたいものを書いた作品であった。この歌劇は大成功してショスタコーヴィチの人生に全く新しい展開を用意することになるのだが、その作曲はこれらの思い通りにならない作品の反動という背景がある。
『ボルト』も、そんなバレエの一つであった。ショスタコーヴィチにとっては、これも興味が乗らない仕事であった。舞台は工場、労働者がいて機械がある。機械の中にボルトが差し込まれ機械が壊れる。一騒動あって最後は大団円、だ。案の定、というべきか、このバレエの上演は一回だけに終わる(二回行われたという証言もあるが)。ショスタコーヴィチはこれに特に落胆した様子も無い。このちょっと後のプロコフィエフが《ロメオとジュリエット》のような古典的題材のバレエに音楽を付け大成功を収めるのとは対照的でもあるが、ショスタコーヴィチとバレエの出会いは特に幸福なものとはならなかった。
演奏会用組曲として
しかし、音楽自体は非常に魅力的であり評判も良かった。そのため、ショスタコーヴィチは前作の《黄金時代》に対してもそうしたのだが、バレエ全曲から数曲を取り出して演奏会用の組曲を編み上げる。組曲版は全8曲の1931年版と全6曲の1934年版があり、二つの版は細部が異なっているとのこと。(1931年版の譜面を目にしたことが無いので詳細は分からないのだが。)今回演奏するのは1934年版と、そこから取り除かれた1931年版の6曲目「植民地の女奴隷の踊り」と7曲目の「調停者」の踊りを加えた、いわば折衷版となっている。ショスタコーヴィチが後に編纂したほうの1934年版の方がショスタコーヴィチとしては納得のいくものだったのだろうが、そこから省かれた2曲も非常に魅力的であり、このような折衷版もあっても良いだろう。特に7曲目はシロフォンが縦横無尽の活躍を見せ、非常に魅力的な音楽となっている。
交響曲といったショスタコーヴィチのシリアスな作品ではあくまで一つの要素でしかない「笑い」が前面に出た作品である。もちろんそれはショスタコーヴィチ特有の乾いた笑いであり、全体的に非常にシニカルでかつドタバタした味わいの音楽となっている。こういった作品は実はショスタコーヴィチのこれ以降の作品からは少なくなっていき、特に交響曲には晦渋な面が強く感じられるようになっていく。意に添わぬ仕事の産物だったかもしれないが、この後にショスタコーヴィチに振りかかった運命のことを考えると、それでもショスタコーヴィチにとってはまだ幸せな時代だった頃を記憶している作品なのかもしれない。
(中田麗奈)