チャイコフスキー 大序曲〈1812年〉の楽曲解説

一旦、小康状態が訪れ、穏やかな⑥aが弦によって歌われる。この原曲は自作のオペラ〈地方長官〉第Ⅱ幕第8番のマリアとオレーナの二重唱⑥b。チャイコフスキーはカノン風な掛け合いと、女声のデュエットらしい柔らかさの両方を、そのままオーケストラに移し変えている。変ホ短調に転じた民謡風の⑦は、ロシアの民族舞踊の〈門の前で〉の引用。男声が速いテンポでリズミカルに歌うことが多い舞曲が、叙情的で素朴な民謡調に置き換えられているが、R=コルサコフが1866年の〈3つのロシアの歌による序曲〉Op.28で、第1主題〈皇帝讃歌〉、第2主題〈門の前で〉という重要な役割で使用していたことからも、民謡としての浸透ぶりが窺える。

1812 06a

初期のオペラ〈地方長官〉Op.3 第II幕 8番の二重唱

1812 06b

ロシアの民族舞曲「門の前で」による

1812 07

この後、戦闘が再開。既出の主題をダイナミックに組み合わせた再現部で大砲が炸裂すると、フランス軍は総崩れになり、変ホ長調の下降音階の長大な雪崩が退却を表す。

ロシアの勝利がバンダを加えた〈主よ、汝の民を救いたまえ〉①で壮大に示され、ロシア正教を象徴する楽器“教会の鐘”が復活祭さながらに谺する。

更に、③bが戦勝の凱歌として〈帝政ロシア国歌〉⑧を導き、壮麗に結ばれるのだが、このコーダが、時系列的に矛盾しているということは、以前から指摘されていた。〈帝政ロシア国歌〉は1812年には存在していなかったからだ。

帝政ロシア国歌「神よ皇帝をまもりたまえ」(リヴォーフ作曲 1833年国歌に)

1812 08

事情はこうである。多くの国で、王を讃える讃歌として歌われていた〈ゴット・セイヴ・ザ・キング(クイーン)〉は、フランス革命の頃には、イギリスで実質的な国歌として歌われるようになっていた。一方、革命が起きたフランスでは、工兵将校のR.de.リールが依頼されて軍歌を作曲。これがマルセイユから集結した義勇軍によって歌われ、1795年7月14日に国歌として採用された。敵対していたオーストリアでは国歌の必要性を痛切に感じたハイドンが1797年に〈神よ、皇帝フランツを護りたまえ〉を作曲、これが国歌となった。ロシアは正式な国歌が無いまま、ナポレオンを撃退した後、1833年の公募でリヴォフが作曲した〈神よ、皇帝を護りたまえ〉が選ばれ、国歌となった。

つまり1840年に生れた時に、帝政ロシア国歌は既に既定事実として存在していたせいもあって、チャイコフスキーは、〈デンマーク国歌による祝典序曲〉(66年)で使用したのを皮切りに、幾つもの曲で引用を重ねた。

音楽的には、時代的に噛み合わない素材が組み合わされているのは事実なのだが、〈ラ・マルセイエーズ〉が、未だ存在していない帝政ロシア国歌と直接衝突したり、対位法的に重ね合わせるという愚は避けている。つまり、〈主よ、汝の民を救いたまえ〉①で始めたナポレオン戦争のドキュメンタリーは、裏表紙としての①の再現で一旦締め括り、1833年作曲の〈神よ、皇帝を護りたまえ〉を次の時代の象徴として登場させる、という巧みな構造になっているのだ。祝典の場を借りて“〈1812年〉の勝利のおかげで、今のロシアの栄華があるのです”と、当時の聴衆にアピールした歴史絵巻として聴くのが正解であろう。

  • 1
  • 2

タグ: チャイコフスキー

関連記事