ワーグナー《トリスタンとイゾルデ》より

トリスタン伝説とワーグナー

tristan and isolde 120px 《トリスタンとイゾルデ》はケルト起源の伝説に基づいている。ローマ帝国の時代からスコットランド辺りで活動していたピクト人はケルト系ともされるが、実態は不明。このピクト人の年代記に登場するドゥルストという名前が、トリスタンという名前の原型と推測されている。ドゥルストとは嵐や喧騒を意味し、ドゥロスタンという名前にも変化している。この名前はウェールズに渡るとドリスタン、トリスタンとなり、フランス語の悲しみを意味する言葉「トリステス」と結びつき、物語性を想起させる名前となっていく。

一方のイゾルデという名前の由来はトリスタンほど分かってはおらず、ピクト人のイシルトという名前に由来するという説や、ケルト神話で「生命の水」を意味するとの説もある。何れにせよ、トリスタンにしろイゾルデにしろ、その原型は謎に包まれている。中世になると、伝説が吟遊詩人の手を経てある程度の形になってくる。文学作品としてのトリスタン伝説は、その一番の原型は12世紀後半に古フランス語でまとめられたらしい。

その後、派生したいくつがある流れの中での一つ、13世紀にドイツでゴットフリート・フォン・シュトラースブルクという詩人がトリスタン伝説をもとに書いた詩がある。この詩の現代ドイツ語訳が出版されたのが1844年。この時、ワーグナーはザクセン王国のドレスデン・シュターツカペレの指揮者を務めており、《タンホイザー》を作曲中だった。ワーグナーはシュトラースブルクの詩とその研究に触れ、トリスタン伝説を創作の一つのアイデアとしてストックしていたらしい。ただ、ワーグナーが触れることのできたトリスタン伝説を題材にした作品は、この時点から具体的に創作を開始する1857年までの間にも数多くあり、シュトラースブルクの作品がワーグナーの《トリスタンとイゾルデ》の原作になったとまでは言えない。

ワーグナーは台本を自分で書いたが、その際、自分自身で物語を再構築している。もちろんそれは、ワーグナーの作曲する音楽と密接に関わり、音楽の効果を最大限に発揮するものだった。

音楽と現実の危うい重なり合い

ワーグナーが《トリスタンとイゾルデ》の創作を決意するのは1854年のことだが、具体的に創作を開始するのは1857年の夏から。まず、散文の形で台本が書き始められる。秋には完成し、そのまま音楽の作曲開始へ。1859年夏には全曲が完成した。全三幕の長大な歌劇(ワーグナー自身は「劇進行」という意味深な言葉をこの作品につけているのだが)で、その特徴的な和音進行で、ワーグナーのみならず、その後の音楽の流れも大きく変えた画期的、衝撃的な作品だった。

ワーグナーがこの作品を手掛けるきっかけの一つとしてあげられるのが、人妻マティルデ・ヴェーゼンドンクとの秘密の愛である。ワーグナーは1848年に起こったドイツ三月革命に加担して王政廃止の主張を唱えたため、革命が鎮圧されるとドレスデンの宮廷歌劇場の職を失い、流浪の身となる。定収入がなく借金が増え続けるワーグナーに救いの手を差し伸べたのが商人のオットー・ヴェーゼンドンク。資産家だったオットー・ヴェーゼンドンクはワーグナーに資金援助を申し出るが、程なく、このオットーの妻マティルデとワーグナーは恋愛関係となる。ワーグナーも結婚してミルナという妻がいた。この禁断の関係の最中に、《トリスタンとイゾルデ》の創作が進んで行く。

《トリスタンとイゾルデ》の物語は、アイルランドの王女イゾルデがコーンウォールの王マルケに嫁ぐことが決まっているが、イゾルデとマルケの甥トリスタンは誤って一緒に媚薬を飲み、二人は禁断の恋におちる、というもの。この《トリスタンとイゾルデ》の物語とワーグナーの私生活はリンクしていて、ワーグナーの私生活が《トリスタンとイゾルデ》の創作に影響を与えたとも、《トリスタンとイゾルデ》の創作がワーグナーを禁断の恋に走らせたのだとも言われることがある。創作と現実との、危うい相関関係。

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