1959年8月、モスクワ
バーンスタインはモスクワにいた。当時、常任指揮者を務めていたニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団の世界ツアーでソビエト連邦を訪れた為である。この時のニューヨーク・フィルのソ連滞在は3週間、全18回にもおよび演奏会が企画されていた。当時、アメリカ合衆国とソビエト連邦はまさに冷戦の真っただ中にあり、芸術と言えども、当然、そういった政治の動向と無縁ではいられなかった。このニューヨーク・フィルのツアーも平和友好をうたった文化使節だったにも関わらず、両国の国威発揚の場として使われていた。
この時のニューヨーク・フィルのツアーは、すべてがバーンスタイン指揮という訳ではなく、バーンスタインと2人の副指揮者の合計3人で全公演を分け合っていたのだが、この3人とも、アメリカ生まれアメリカ育ちの指揮者だった。ヨーロッパからの移民の国として誕生したアメリカ合衆国は、当然、文化・芸術の分野においてもルーツをヨーロッパに持つ。有名なところでは19世紀末20世紀初頭のドヴォルジャークやマーラーのように、ヨーロッパで実績を積んだ作曲家・指揮者を、大金でもって招聘して学校やオーケストラの指導にあたらせる、というのが当然のこととなっていた。しかし時が経ち、アメリカ合衆国生まれでも優秀な人材が現れてくるようになる。そのとっておきの逸材が、レナード・バーンスタインだった。そんなバーンスタインがニューヨーク・フィルのソ連ツアーの中心的人物に割り当てられるのは当然のことだった。国家を、アメリカ合衆国を背負っていたのだった。そしてまた、アメリカ合衆国の理念である自由、そしてそのバックボーンともなる西ヨーロッパの啓蒙思想をも、この時のバーンスタインは背負っていたのかもしれない。そして実際、バーンスタインはそういったものを背負えるだけの大きさと力を持った人間だった。指揮をするだけでなく、詩人パステルナークといった文化人と会うなどして忙しいスケジュールを精力的にこなしていたバーンスタインだったが、ある日、父方の親戚である叔父シェロモと従兄弟ミハイルに会うことになった。バーンスタインが二人と会うのはこの時が生まれて初めてだった。シェロモの姿を見た時、バーンスタインには衝撃を受けた。叔父の口にいっぱいに広がっていたのは、ステンレスの総入れ歯だった。
1918年8月、ボストン
バーンスタインはアメリカ合衆国に渡ってきたロシアからのユダヤ人移民の両親からニューヨークで生まれた。この当時、1914年に始まった第一次世界大戦は終盤を迎えようとしていた。パリを射程におさめたドイツ軍の陣地において、従軍していたヒンデミットがドビュッシーの弦楽四重奏曲を得意のビオラで演奏していたその時に、パリにいたドビュッシーが死んだという知らせを聞いたのが1918年3月のこと。しかし、この後のドイツ軍の大攻勢をイギリス軍・フランス軍、そして1917年になって参戦したアメリカ軍が中心になって編成された連合軍はしのぎきる。そして、もう、ドイツには既にこの戦争を戦い続ける為の余力は残っていなかった。アメリカ合衆国が第一次世界大戦に参戦したのは1917年4月のこと。当初は中立を保っていたアメリカ合衆国だったが、ドイツの無制限潜水艦作戦により民間人を乗せた船舶がドイツ軍の潜水艦の標的となった。アメリカ合衆国の民間人から死者が発生すると世論も硬化、時のアメリカ合衆国大統領ウッドロー・ウィルソンも参戦を決意。そしてヨーロッパに派遣するアメリカ軍が急遽編成されることになった。1917年5月、徴兵制法が成立。これでアメリカ合衆国の成年男性は義務として戦地に赴くこととなる。
バーンスタインの父親サミュエル・バーンスタインはこの時、結婚直前だった。相手は同じくロシア帝国から来たユダヤ人移民のジェニー・レズニック。サミュエルとジェニー、アメリカ合衆国に先に渡ってきたのはジェニーの方が先だった。1899年、ロシア帝国に統治されるウクライナ北西部の街シェペトヴカに生まれたチャーナ・レズニックは、7歳の頃に母親に連れられてアメリカ合衆国に移住する。リガの港から出発した三等客室での劣悪な船旅は一ヶ月に及び、チャーナは手首を骨折する。ニューヨークに到達し、そこで移民局の役人からチャーナはジェニーという名前を与えられる。先にアメリカ合衆国に来ていた父親と合流し、彼女は一家揃ってアメリカ合衆国での生活を開始する。
この当時、毎年5万人のペースでユダヤ人が移民としてロシア帝国からアメリカ合衆国へ渡っていた。ロシア帝国の版図内には帝政末期の統計で520万人(総人口の4パーセント)という多くのユダヤ人が生活していたが、権利は制限され、多くは貧しい生活を余儀なくされていた。これに加え、ポグロムと呼ばれた虐殺行為が増え始める。19世紀のヨーロッパにおける民族意識の高まりの中、異民族であるユダヤ人はそれまで以上の迫害を受けるようになり、特にロシアでは直接に身体的危害が及ぶことも珍しいことではなくなっていた。こんな環境から逃れるため、多くのユダヤ人がアメリカ合衆国に移民を行うようになる。もちろん、なんのつても財産も無い多くのユダヤ人にとって、アメリカ合衆国の社会の最下層からの出発だった。そんな最下層からアメリカ合衆国の生活をスタートさせたレズニック家だったが、ジェニーの英語の上達は早かったという。一家の経済状態が好転しないために、ジェニーは教師になるという夢は諦めて工場で働き続けねばならなかったのだが、レズニック家は慎ましやかながらもささやかな幸せを享受出来るようになっていた。