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989年12月、ロンドン
ニューヨークの初演は、大入りからはほど遠いものだった。打ち切りが発表されると観客が増えるという皮肉な現象もあったが、2月の始め、ミュージカル《キャンディード》は打ち切りとなった。バーンスタインは深い傷を負うこととなる。この傷は、次に手がけたミュージカル《ウエストサイド物語》の大成功によって癒えたかに思われたが、ミュージカルとして高い完成度を持つが故に、音楽、つまりバーンスタインはまたしても主人公になることは出来なかった。《ウエストサイド物語》は音楽はもちろん魅力的だが、その物語中に描かれた主人公の悲劇が圧倒的に胸を打つ作品となっている。静かに寂寥感を持って終わる《ウエストサイド物語》の音楽は、コンサートピースとして扱った場合に盛り上がりにかけるため、いささか扱いにくいものとなってしまった。これに対し、「メイク・アウワー・ガーデン」という聞き映えのする感動的な歌を最後の場面に持ってきた《キャンディード》のほうが、演奏会的には据わりが良いものとなる。実際、この「メイク・アウワー・ガーデン」は、本場アメリカ合衆国において、多く演奏される曲になってきているという。この先、バーンスタイン生誕100年を祝う演奏会においても、それ以外の場でも、感動的に場を締める音楽として取り上げられることも多いだろう。
晩年のバーンスタインは、アメリカン・ドリームの体現者として、また、アメリカ出身でありながらヨーロッパの一流オーケストラや音楽家と数多くの共演を重ねた指揮者として、栄光の頂点にいた。その最後のキャリアのさなかの1989年、バーンスタインはロンドン交響楽団を自ら指揮し、演奏会スタイルで《キャンディード》の全曲上演を行った。その模様は映像にも収録され、CDも自作自演の決定版として広く販売されている。バーンスタインが《キャンディード》の全曲を指揮するのはこの時が初めてだった。当然、そこはこの元気いっぱいの「序曲」で幕をあけ、バーンスタインの魅力的な音楽が繰り広げられている。《キャンディード》の音楽は、前述したようにショービジネスの音楽という性格上、途中、様々な人の手が入ったものとなっていった。そのため、このバーンスタインの自作自演による《キャンディード》こそ、バーンスタインという作曲家の意思が最も汲み取れる版ということになっている。本日の演奏も、この版のものと大差はない。しかし、初演当時の出演者・演奏者によって収録された初演スタッフ版が残されているのだが、その初演スタッフ版を聞いた時にこの晩年の自作自演版を聞くと、あまりの違いに愕然とするかもしれない。初演版はミュージカルの軽い雰囲気を持っているのに比べると、晩年の自作自演版は完全にオペラといってよい。物語展開こそは軽いものかもしれないが、それもモーツァルトの《魔笛》のようなものだ。《魔笛》がオペラならば、このバーンスタインの自作自演の《キャンディード》も、紛うことなきオペラである。これがポピュラー音楽とクラシック音楽の垣根を取り払おうと考えた1950年代のバーンスタインの理念の後退なのかどうかは、私には分からない。前述のように、バーンスタインはクラシック音楽で頂点に登った人間だった。それは並々ならぬ挑戦の連続だったし、それを可能にしたのはバーンスタインの並々ならぬエネルギーであった。
1959年9月、モスクワ
ニューヨークフィルのソ連公演において、バーンスタインは父が故郷に遺した親戚と生まれて初めて対面した。その時、バーンスタインは叔父が総ステンレスの歯をしていることに強いショックを受ける。歯の健康というのは、その国の医療と社会保障の程度を示すバロメーターである。貧しく、また社会保障が整ってない国の人間の歯は治療されることが無く、悪くなっていくのみとある。そして、ステンレスの入れ歯。バーンスタインは自分がもしこの国に生まれたとらどうなっていたかと考えて、ぞっとしたことだろう。このツアーにバーンスタインの両親は同行していなかったのだが、レナードが叔父と対面したとの知らせを受け、父親サミュエルは急ぎソ連に飛んだ。感動の兄弟の再会である。しかし、二人は固く抱き合った後、言葉を交わすこと無く押し黙ったままだったという。二人を分け隔てたもの。それを運命と呼ぶのは、まだ生易しいのかもしれない。
そしてもう一つ。ソ連において同性愛は違法なものとされ、現在のロシアでも同性愛は国家からの取り締まりの対象となる。その当時、バーンスタインの性的興味の対象は女性も含まれていたのだが、晩年になると、男性の比重がどんどんと高まっていく。ソ連において、男性とおおっぴらに愛の言葉を交わすことは不可能だった。バーンスタインは心の底から、自分がソ連に生まれなくて良かったと思っただろう。