- 2人とも敬慶なクリスチャンだったこと。フランクの代表作のひとつにオラトリオ〈至福〉がある。曲はマタイ伝による8つの〈至福〉からなっているのだが、そのどれもが、『勧善懲悪で、最後はキリストのお告げでめでたく結ばれる』という、ワン・パターンなのだ(音楽はテクストよりは、遙かに変化に富んでいるが)。ドビュッシーは「有り難い説教を伝え、『神に、お任せなさい』と微笑んでいる、信徒みたいなもの」と皮肉っている。
この交響曲の第1楽章は悲劇的な闘いの音楽だが、こうした闘争→勝利型の“〈運命〉パターン”の交響曲は、第1楽章を短調のまま終わらせることが多い。その方が、ドラマトゥルギーとして効果的だからだ。しかし、フランクは、第1楽章を敢然とニ長調の光の中に急転して終わらせる。これはブルックナーの〈8番〉の初稿と同じく、神への熱烈な憧れがドラマをひと先ず中断させ、「しかし、常に主は栄光に輝き」とばかりに、現実の闇を陽転させてしまう、信仰家らしい飛躍の典型だ。
- 熱狂的なワグネリアンでありながら、演劇嫌いであったこと。ブルックナーは、〈トリスタン〉や〈指環〉の物語には全く興味を示さず、専ら言葉ぬきの音楽として惹きつけられていたため、ヒロインのブリュンヒルデが炎に包まれる〈ワルキューレ〉を観て、「あの女は、何で焼かれたのだね」と訊ねた、といったエピソードに事欠かない。一方フランクは、女優で芝居好きの妻に、始終、劇場に付き合わされるのが苦痛で、観劇の間中、常に居眠りをしていたという。
そんなわけで、2人とも世俗的なドラマの世界を作品に持ち込むのは、得意ではなかったが、この点に関してはフランクの方がずっと上。管弦楽法のパレットも多彩で、交響詩などでは、遙かに雄弁な音楽を聴かせてくれる。例えば〈呪われた狩人〉は、〈ロマンティック〉の『狩りのスケルツォ』よりは数段ドラマティックだし、最後の交響詩〈プシシェ〉の甘美な陶酔は、マスネやラヴェルに退けをとらない。この交響曲でも、コールアングレとハープによる絶妙な音色のエレジーに始まり、宗教的な至福の中に、〈トリスタン〉的な法悦をもかいま見せる第2楽章は、フランクの神髄と言えよう。
- 共に晩成型だったせいもあって、生前には作曲'家として、今日ほど高い評価を得ていなかった。フランクは、当時のパリ音楽院事務局に「当校には、一介のオルガン科教授でありながら、厚かましくも作曲家を名乗る輩がいる」と誹誘されている。これは、ブルックナーの作曲家としての能力を認めようとしなかった美学者ハンスリックの態度を、髪髭とさせるのだ。
しかし、若者達は先入観がない分、本質的な能力を的確に見抜く。生徒達の人気は高く、次第に作曲家としての門弟が集まるようになり、自然に崇拝者の輪が作られていった。ブルックナーの場合には、マーラーやハンス・ロット、フランクの場合には、ダンディ、ショーソン、デュパルクを旗頭に、フランキストと呼ばれる熱烈な使徒の集団が結成され、その音楽を広めることになった。
こうしたフランクの特徴が集約的に示された傑作が、最晩年に書かれた〈交響曲ニ短調〉なのだ。
今日、よく演奏されるフランクの傑作と同様(その殆どは器楽曲だが)最晩年に書かれた。1886~88年に作曲、89年(67歳-死の前年)2月17日、ジュル・ガルサン指揮、パリ音楽院管弦楽団によって初演。「無能を自覚したうえで、それを“語録”のように延々と引き延ばした作品」というグノーの酷評、また「交響曲にコールアングレを使うとは」という、今となっては中傷としか思えない批評(ベルリオーズが半世紀も前に〈幻想〉に使っているのだから)に代表されるように、初演は勝利とは程遠いものであり、取り巻き達しか拍手を送らなかったが、フランク自身は出来に満足していたという。
安直にロマン的な時流に乗って、派手な俗受けを狙うことを拒否したフランクの作風が、当時の人々に『閃きがなく、時代遅れ』と映ったのは不思議ではない。先程来、ブルックナーとの近親性から話を進めてきたが、古典主義的な純音楽指向を貫こうとしたフランクの姿勢は、ブラームスと共通したものがある。ストイックで効果に走ることを拒否したような、この交響曲の響き自体は、89年という年代を考えるとかなり古風であり、それがグノーのような批判に繋がったのであろう。(マーラーは同年に〈1番〉を、前年の88年にチャイコフスキーは〈5番〉を書いている)。しかし、死後、評価は次第に高まり、フランスの交響曲史上の傑作として揺るぎない評価を得たのは、ご承知の通りだ。