流行りに乗るベートーヴェン
《レオノーレ》序曲第3番はベートーヴェン唯一のオペラの序曲のために作曲された音楽で、このオペラ《フィデリオ》の物語は、16世紀スペインを舞台としたもの。無実の罪で2年もの間に渡って牢獄に囚われているフロレスタン。妻のレオノーレは男装しフィデリオと名乗り、果敢にも夫の救出に向かう。この高潔な、かつ高らかに夫婦愛が称えられるオペラはいかにも理想主義者ベートーヴェンに相応しく、かつ、娯楽としての性格を大きくもつオペラというジャンルとベートーヴェンとの、なんとも言えないずれが語られてきた。これはこれで間違いではないのだが、ベートーヴェンがこのオペラを作曲する経緯を事細かに見ていくと、もうちょっと違った風景も見えてくる。
《フィデリオ》、台本を書いたのはジャン=ニコラ・ブイイというフランスの劇作家で、元々はフランスの作曲家、ピエール・ガヴォーのオペラ《レオノール、または夫婦の愛》(1798年)のために書き下ろされたもの。実はこの物語、舞台設定はスペインとされているがそれは表向きのことで、実際は革命直後の恐怖政治が吹き荒れるフランスが舞台となっている。恐怖政治の中心人物であるロベスピエールが処刑され恐怖政治が一応の終焉を見たのが1794年のことなので、ガヴォーのオペラは少し前の出来事を扱ったということになるが、まだまだ記憶も生々しく当事者もたくさん生存しており、何より社会情勢がまたどう転ぶかわからない。表向きは昔のスペインの出来事ということにして、フランス革命と恐怖政治という異様な、しかしドラマティックな舞台設定を楽しむことにしたのである。この救出劇、オペラの題材にもってこいだったのか、イタリア出身の作曲家フェルディナンド・パエールが新たにオペラ《レオノーラ、または夫婦の愛》を作曲し、これは1804年にドレスデン宮廷歌劇場で上演されている。他にも、イタリアの作曲家ヨハン・シモン・マイルによるオペラ《レオノーラ、または夫婦の愛》もパドヴァで1805年に上演されている。これは現在のドラマや映画、漫画やアニメ、流行歌といったものと全く同じで、流行った作品があればそれをいち早く取り入れた作品が後に続き、一大ジャンルを形成するのと全く同じである。この時代、オペラは時代の最先端を取り入れたメディアだった。流行った題材があればその流れに乗る。
ベートーヴェンも、この流れに乗った一人だった。そもそも、ベートーヴェンはこの時期、シカネーダーの台本による《ヴェスタの火》というオペラの作曲に取り掛かっていたのだが、これにベートーヴェンは全く乗り気ではなかった。《ヴェスタの火》の作曲を開始したが《レオノーレ》の存在を知り、ヨーゼフ・ゾンライトナーというシカネーダーとは別のウィーンの劇場関係者に台本のドイツ語訳を依頼する。さてシカネーダーという名前、どこかで聞き覚えがあるかもしれない。そう、モーツァルトと組んで《魔笛》の台本を書いた人物である。ベートーヴェンは《ヴェスタの火》の作曲を始めてから1週間経った頃には、すでに別の台本探しを始めていた。モーツァルトを虜にしたシカネーダーの「お伽話」だが、ベートーヴェンは全く興味が湧かなかった。これは、モーツァルトとベートーヴェンの人物像の違いかもしれないし、二人の間にはフランス革命という社会の大変動が横たわっている。人々がオペラに求めるものも当然、変化している。そして、オペラを送り出す側の意識も。「リンゴおばさんのような言葉と詩」、ベートーヴェンはシカネーダーの台本をこんな言葉で表現している。