R.シュトラウス アルプス交響曲の楽曲解説

1911~15年2月8日作曲。15年10月28日、シュトラウス指揮のドレスデン王立歌劇場管弦楽団によりベルリンで初演。初演がベルリンになった理由は以下のとおりだ。

「ベルリンのフィルハーモニー大ホールでの演奏のために、私は116人の奏者を必要と しています。つまり木管が倍の人数、即ちあと8人とハープ4台(スコア上は2パート)です。この8人とハープ奏者2名は、私自身がベルリンで見つけることができるでしょう。しかし必要な弦のエキストラは、ドレスデンから連れていきたいのです。つまりドレスデンで総勢107名の奏者を集めて欲しいのです。
オルガン奏者は私がベルリンで手配します。何故なら、オルガン奏者はフィルハーモニーのオルガンについて熟知してなければならないからです。オルガンはとても重要です。例えば雷の場面では、大きな、そして完全なコンサート・オルガンが必要不可欠です。」

(15年6月19日の手紙)

この記述では触れていないが、4管編成の管楽器にはヘッケルフォン(バス・オーボエ)、打楽器群には風音器や雷鳴器といった特殊楽器。更に16人の舞台外の金管群が参加する。

98~18年(34~54歳)、プロイセン宮廷楽長=ベルリン宮廷歌劇場芸術監督を務め、指揮者として頂点に立っていたシュトラウスは、いずれもドレスデンで初演した〈サロメ〉05年、〈エレクトラ〉09年、〈薔薇の騎士〉11年で、歌劇作曲家としての地位をも不動のものにしていた。〈薔薇〉は、ドレスデン行きの特別列車が仕立てられるほどの圧倒的な大成功だったので、この〈アルプス〉も同地での初演が自然な流れだったのだが、上述のようにオルガンがらみの事情から、殆どの楽員をドレスデンから引き連れ、ベルリンで初演するという、異例の事態となった。これが、バンダや特殊楽器にも影響を及ぼしたと考えられる。

98年の〈英雄の生涯〉で、交響詩に一旦ピリオドを打ったシュトラウスは、上述の楽劇群でオペラ界も席巻。交響詩時代、既に最先端を行っていた管弦楽法の技術の全てを注ぎ込んで単一楽章形式の交響曲に仕上げたのがこの〈アルプス〉なのである。緩徐楽章に相当する場面は〈ばらの騎士〉を彷彿とさせるし、スケルツォ的な滝の描写では〈サロメ〉の極彩色が煌めく。

登山の一日が時間経過的に描かれ、スコアの各場面にはキャプションも記されているので、そのまま山岳地帯のプロモーション・ビデオを観るようなつもりで聴いても問題なく楽しめるのだが、聴き進むほどに、華麗な音の絵巻の奥にある思想的な側面を無視できなくなる。

そこに地下水脈的に流れているのは、作曲の間中一貫して標題として掲げられてていた「アンチクリスト=反キリスト者」というタイトル。ニーチェの第一の遺稿集(88年)によるこの『反キリスト者』を簡略化して説明するのは難しいが、そこにあるのは“異端、魔女狩り、免罪符”などによって歴史を暗黒化していったカトリックに対する批判。曲想は真逆だが〈キャンディード〉で、ヴォルテールの戯画的な筆致をそのまま音楽化し、枢機卿や大司教を皮肉たっぷりに断罪したバーンスタインとも一致する。

スコアの完成の数日前の15年1月16日に書かれた手紙にも「私はよりよき人間であろうとすることを諦めはしない。いつかキリスト教がこの世から消え去るのなら!」という(ニーチェの)「反キリスト者」からのほぼ文字通りの引用と呼べる記述が指摘されている。最終的にニーチェを想起させる全てを取り去ったのは、シュトラウスが宗教的観点から、個人的な見解を公表することを好まなかったことと、プロイセン宮廷歌劇場指揮者としての立場から『反キリスト者』というタイトルの作品を出版することは許されないと判断したからとされる。その結果、副題として付けられていた「アルプス交響曲」が公式のタイトルになったというわけだ。

ここは宗教論を展開する場では無いから、〈ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯〉(95年)の都会的リニューアル版として〈キャンディード〉を聴き、ニーチェを標題に据えた翌96年の〈ツァラトストラはかく語りき〉を双子座的に捉えた上での入山を勧めたい。

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