R.シュトラウス アルプス交響曲の楽曲解説

シュトラウスは15歳の学生時に友人とアルプス登山を試みている。夜中の2時に出発して登頂に成功。山頂で周囲の山々や湖の眺めを満喫するが、下山途中で嵐に遭遇。肌までびしょ濡れになりながらも、無事に下山したという。「続く数日間、僕はこの旅すべてをピアノで作曲した」と記しているから、それが、この大曲の萌芽になったのは確かだろうが、より注目すべきは、曲を具体的に作曲し始めようとしていた1911年5月、マーラーの死を受けて書かれた日記の記述だ。

「長い病の末に5月18日マーラーがこの世を去った。志高い、理想主義的で、情熱的な芸術家の死。大いなる喪失。ヴァーグナーの回想録に大いに心を動かされた。
L.ランケの『宗教改革時代のドイツ史』を読む。これによって次のことをはっきりと理解した。
文化を形作るあらゆる要素は、世紀を越えて生き長らえることはない。つまり、どんな偉大なる政治運動、宗教運動もある特定の時期にのみ豊かな成果を残すことができるのである。[中略]国家としてのドイツはキリスト教からの解放によってのみ、再び活力を得ることができる。このことはあまりに明らかだ。私はわがアルプス交響曲を『反キリスト者』と呼ぼう。何故ならそこには自らの力による道徳的な純化、創造による救済、すなわち永遠の、そして栄光の自然への崇拝があるからである。」

(以上は、オイレンブルグ=全音版スコアの解説の要約である)

世界が第1次大戦へと雪崩込んでいったこの時代、マーラーの死だけでなく、アムンゼンに隊に遅れながらも南極点到達を果たした帰途の1912年3月29日に遭難死した英国のスコット隊、12年4月15日のタイタニック沈没といった歴史的な悲劇が相次ぐ。この曲がそれを反映しているように感じられる点以上に、筆者が注目しているのはランケの「文化を形作るあらゆる要素は、世紀を越えて生き長らえることはない」以下に、シュトラウスが賛同していることだ。

それを解く鍵は、登山に入って直ぐの狩のホルン⑤aにある。スコアの指示は「遠くからの狩猟ホルン群」で、3パート12人のホルンにトランペット2、トロンボーン2を加えた16人の大部隊。夜が白み始め、太陽が昇る中、山道に入って、というところまでは、リアル過ぎるほど普通の描写音楽なのだが、シュトラウスの時代、登山の途中でこんな豪勢な金管バンドが聞こえるわけはない。偶然、軍楽隊の野営地が麓にあったとしても12人のホルンがメインというのは奇妙なのだ。

この原型は、大きな円管部を肩からまわして担ぐ「狩猟ホルン」。それを信号に使って騎士達が狩をしていた時代を再現しようとしたということで、そうした中世に時代設定したワーグナーの〈タンホイザー〉第Ⅰ幕の3人×4パートの12人、〈トリスタンとイゾルデ〉第Ⅱ幕の6パート(出来れば2人以上ダブらせる)つまり12人以上、が先例となる。

シュトラウスの父フランツは作曲家にしてヨーロッパ1のホルン吹きだったので、彼が弟子達を集めてワーグナーの練習をしたなら、息子のリヒャルトは、そのホルン群団の豪華な響きを環境音楽として、聞くことが出来たはず。それを自作でも使おうとしたのは、領主が騎士達を従えて、その時代の文化を頂点に導いた時代を再現しようとしたからで、ヘルマンやマルケ王の権威と時代背景をホルン群団で象徴しようとしたワーグナーの意図も継承している。それは頂点を迎えた王朝の栄華が永遠に続くかに思えた瞬間へのタイムスリップだ。

ベートーヴェンが〈エロイカ〉で、ワーグナーが「ジ-クフリ-トの英雄主題」として継承した変ホ長調をシュトラウスは、先ず〈英雄の生涯〉で受け継ぎ、登山者を英雄に見立てたこの〈アルプス〉では、登山開始のアレグロ主部の主調にしている。それが最も輝くのが戴冠式の祝賀を彷彿とさせるような、この《狩りのホルン》の部分なのだが、それは頂点で突然ハ短調に暗転する。そこからのタイトルは《森に入る》だが、実は映画「タイタニック」で甲板に衝突した氷山の氷が転がってきたシーンに匹敵する予告的な急転であり、この曲全体の悲劇性が明確に示されるという意味からも、全曲で最も重要な場面なのだ。

もう一つ、この曲を特徴づけているのは、既存の名曲の主題や動機を積極的に再利用するコラージュ的な手法。登山者の目に入る木々、草花、鳥、山羊やヒツジ等は、既存のものばかりで、その象徴が山や谷。ここでの手法は、画家がそれらを素材に山岳画を描いたり、写真家がアルバムに纏めるのと同じで、素材のオリジナリティよりは構図や色彩の斬新性、組み合わせの大胆さ等が作品の命となる。

以下の解説で、主題の類似を指摘している個所は、筆者の独断によるもので、シュトラウスが出典を仄めかすような記述をしているわけではない。そもそも作曲家が引用を行なう場合、出典を自分から明らかにすることは希。しかもシュトラウスは、かなり複雑な音楽でも、聴音による耳コピで採譜できてしまった人なので、証明は不可能に近い。つまり、類似の指摘に賛同できず「別の曲の方が、もっと似ている」「偶然の一致で、いわば他人のそら似」として読み飛ばしてしまっても、全く構わない。そもそも、花の名前や種類、山や渓谷の特徴を説明したり、気象予報士のように雷雲や豪雨の危険度を予測したりはせず、感性だけで描かれた音画であり、その深層を聴くべき作品なのだから。

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