17)エレジー 嬰へ短調。弱音器付の弦によるエレジー⑰。静かなオルガンの和音をバックにイングリッシュ・ホルンが太陽①bの隠れる様子を表した後、イ短調となり、〈マクベス〉(或いはマーラーの〈6番〉)のエコーが、不安をつのらせる。
18)嵐の前の静けさ 牧童の笛⑫bの再現に始まり、エレジー⑰の残像に不安気な鳥の轄りが呼応する。点描的に始まる雨足は、太陽①bが完全に雲に覆われるのと入れ替わりに次第に強まり、半音階にウインドマシンの風音を交えた激しい雷雨となる。
19)雷雨と嵐、下山 変ロ短調。既出の動機を総動員した凄まじい嵐の描写。登山とは逆の順に動機が再現され雨中の下山が描かれる。登山の動機③aは、下りなので、上下が逆の反行形③bで再現される。
変ロ短調の和音の頂点では、オルガンと、〈ラインの黄金〉の雷神ドンナーの一撃を思わせる雷鳴器(巨大な鉄板を叩く)が加わり、音響的なクライマックスが築かれる。嵐が去ると、山②が再び姿を現す。
20)日没 変ト長調→変ホ短調。長大に引き延ばされた太陽①eが、金管による「拡大された運命主題」による変容⑱aを導く。モーツァルトを神としていたシュトラウスだから、これはその警告的リズム主題の原点、〈ドン・ジョヴァンニ〉の終景に遡るべきだろう。殺された騎士長が石像となってドン・ジョヴァンニを連れ去る“地獄堕ち”の開始を告げるレポレロの「タ・タ・タ・ター」⑱bに、長大なレチタティーヴォと化したヴァイオリンによる⑰が重なり合うこの場面は、「エレジー=哀歌」よりも遥かに深く痛切だ。
これをマーラーに関係づけるなら、創造的な天才として共に時代を牽引してきた朋友にしてライバルの死に対する嘆き。よりグローバルな視点からは、モーツァルトが先陣を切った新たな音楽の時代がワーグナーやマーラー、そして自身の作品で爛熟期に達し、その終焉を看取らざるを得ない立場に置かれているという自覚からくる“先駆者の慟哭”と言うべきか。〈ばらの騎士〉の終景で元帥夫人に語らせている「全てには終わりがあるのです」という言葉が重なり合う。
21)結末 変ホ長調。オルガンによる太陽①b=①dに始まるコーダを描写音楽的に聞くなら「残照が教会の尖塔を照らす」夕暮れとなるが、リアリズム的には虚構。麓まで辿りついた登山者の目に教会が見えたとしても遠方から。オルガンはカテドラル内部には響いても、外部にはそれほど聞こえないからだ。静かにコラールを演奏しているような①bは、尖塔に祈りを見た登山者の心象風景に他なるまい。ただし、この清楚なオルガンによるコラールが、最も心打たれる場面なのは確かにしても、「反キリスト者」の到達点としては疑問を感じる。シュトラウスの主眼は、2千年に達する歴史の過程で巨大化と引き換えに暗部が亀裂化した組織的な宗教の否定にあり『大自然の象徴たる山や太陽に捧げる素朴な祈りこそ、信仰の原点』ということを示したかったのだろう。
新たに込み上げてくる感慨を表すように⑪aのアウフタクトの音程の乖離を極端に上下に拡大した⑪cを中心にした叙情的な流れの中に、殆どの動機が回想される。この情感溢れる最後の頂点はワーグナーの〈ニュルンベルクのマイスタージンガー〉の終景の音楽が重なりあう。
22)夜 変ロ短調。場面転換的な呼びかけ⑫aを経て曲頭の暗闇①aが再現。山② →登山③aが静かに回想され、虚無感の中に閉じられる。