バルトーク (1881~1945) 《管弦楽のための協奏曲》

民俗音楽に出会うまでのバルトーク

bartok 120x150バルトークは1881年、オーストリア=ハンガリー二重帝国を構成するハンガリー王国の地方都市ナジュセントミクローシュに生まれた。このナジュセントミクローシュは現在ではルーマニア領となりシンミコラウマーレという名前となっている。と簡単に述べたが、この生地を巡る一節だけでも、バルトークを取り巻く民族意識というものが(本人がどう意識するかに関わらず)、非常に複雑な要素で構成されているということが見て取れるだろう。

オーストリア人であるハプスブルク家の人間が支配するオーストリア帝国は首都をウィーンに持ち、ハンガリーやチェコ(ボヘミア)も支配していた。ハンガリー王国やボヘミア王国というのはその当時も存在していたのだが、ハプスブルク家のオーストリア皇帝がハンガリー王もボヘミア王も兼ねていて、ハンガリー王国もボヘミア王国もオーストリア帝国を構成する一つという形となっていたのである。しかしハンガリー人は民族意識も強く、また経済的・政治的な結合も無視出来ない影響力を保持していた。19世紀後半になってそれは支配者のオーストリア人も無視出来ないものとなり、ついにオーストリア帝国は1867年、オーストリアとハンガリーは同格、両者の間には上下は認められない対等の立場の国家の連合であるオーストリア=ハンガリー二重帝国とその形を変える。ハンガリー王はハプスブルク家の皇帝が兼ねていたので、忠誠を誓う先は変わらなかったのだが、しかしハンガリーにとっては大勝利であった。(ちなみにボヘミア王国の立場は変化が無い。つまり、ハンガリーはオーストリアと同等の地位を得ることによって、帝国内の他の民族に対する優位を獲得したのであった。)

 

帝国内の法的な立場は強力なものとなった。経済力もある。しかし、文化的にはどうであったか。バルトークの初期の作品に《コッシュート》(1903)という交響詩がある。これは題材こそ19世紀ハンガリーの民族運動の英雄コッシュート・ラヨシュを描いたものだが、形式的には当時のバルトークが強い影響を受けていたリヒャルト・シュトラウスの作品、特に《英雄の生涯》(1898)の枠を超えるものではなかった。当時、バルトークはまずブラームスに入れ込み、その後、《英雄の生涯》のピアノ編曲を手がける程にリヒャルト・シュトラウスに熱中した。これはまず、普遍的な作曲技法を獲得する為には必要な手順だったとはいえ、ドイツ音楽の大家であるブラームスや、当時のひたすら高揚していくドイツ・ナショナリズムを背にしたリヒャルト・シュトラウスに手本を求めるというのは修業時代であればまだ許されるとしても、「ハンガリー的な音楽」を本格的に表現する段階になると避けなければならないことだった。そのことはバルトークも意識していたようで、ハンガリーの民族意識を表現する手段としての民謡に着目している。この時期、ハンガリーの民謡に和声付けした《セーケイの民謡》(1905)というピアノ曲を作曲している。しかし、まだスタイルはドイツ的(ブラームス的)なものであり、バルトーク自身も、民謡の中で最も美しいものを選び出して芸術の域にまで高めることを目標とする、という旨のことを手紙に書いている。ここには、まず民謡の中から良いものを選び、そしてそれを芸術の域に高めるという二重のフィルターが働いている。いまだバルトークにとって、民俗音楽は芸術音楽から比べると良いものもあるかもしれないが、根本的な枠組みにおいて劣ったものでしかなかった。

このバルトークの意識を根本的に変えたのが、コダーイとの出会いである。コダーイ・ゾルターンは1882年生まれ。バルトークより一つ年下でリスト音楽院で作曲と民俗音楽を学んでいた。雑誌に掲載されたコダーイが採取した譜例を見たバルトークは、コダーイに接触する。既に若き民俗音楽学者として実績を積みつつあるコダーイがバルトークに手ほどきをするという形で、バルトークは急速に民俗音楽の世界に入り込んでいく。バルトークも民俗音楽を取り扱うのに必要とする学問的な知識を身につけ、二人は共同研究者として東欧各地の農村に民俗音楽採取の旅に出かけるようになる。民俗音楽者バルトークの誕生であった。

民俗音楽を知ったバルトークの音楽は根本的な変化を遂げた。研究者によって細かな年代に違いはあるが、バルトークがハンガリーの民俗音楽と出会う1905年前後の1904年もしくは1907年ごろまでが、作曲家バルトークの習作期とされる。これ以降、バルトークの作曲活動は本格的になるのだが、民俗音楽の採集・分類と研究も本格的なものとなっていく。和声法やソナタ形式など、古典的な作曲技法とは全く別の音楽大系が民俗音楽の世界にはあり、バルトークはその民俗音楽のエッセンスを自らの音楽に取り込むことによって独自の音楽世界を作り上げていった。そこはもう、ブラームスやリヒャルト・シュトラウスといったドイツの大作曲家達とは全く別の個性が展開される世界であった。とはいえ、民俗音楽との出会いのみが作曲家バルトークを生んだ訳ではなく、他にもドビュッシーの音楽に強く影響されたとはバルトーク自身が語っている通りである。近代フランス音楽の代表的存在であるドビュッシーはドイツ的な音楽とは全く別の音楽世界をいち早く志向し、そして現実のものとした作曲家であると言って良いだろう。「ドイツ的」なものを避けながらも作曲を目指す者達には絶対的な存在であり、レブエルタスもドビュッシーの音楽に強い衝撃を受けたと語っている。レブエルタスにとってドビュッシーの衝撃は非常に大きく、しばらくはスランプに陥り作曲の筆が止まってしまうほどだったが、やがて作曲を再開し自らのスタイルを確立していく。バルトークもドビュッシーや民俗音楽に強い影響を受けながらも、自らのスタイルを獲得していく。

作曲家として成長したバルトークは、以前のように民俗音楽は決して芸術音楽に比べて劣ったものとは考えず、むしろ民俗音楽の要素を取り入れて芸術音楽が発達したのだと考えるようになっていた。また民俗音楽(一般庶民の音楽)の中にある民族性。バルトークはハンガリー各地の民俗音楽を採取し研究することによって、ハンガリーの民族性というものに真っ正面から向き合うことになる。

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