バルトーク (1881~1945) 《管弦楽のための協奏曲》

幸福な時代の記憶として

5楽章形式。それまでのバルトークの音楽と同じく極めて抽象的なもので、直接的には他の何かをイメージさせるものはない。それでも、アメリカ合衆国の聴衆に配慮したのか、それともバルトーク自身の作風自体が変わったのか、聞く者に対して極度の緊張を強いるようなヨーロッパ時代の音楽と比べると、音楽は明るく親しみやすいものとなっている。特に5楽章にはハンガリーの農村でバルトークが耳にした豚飼いの笛の音が再現されており、それはバルトークの幸せだった時代の追憶なのではという指摘がある。この《管弦楽のための協奏曲》は依頼を受けて一から作曲したものではなく、他の曲の為に準備していた構想などを転用したものも少なくないことが明らかになっている。また第4楽章の「中断された間奏曲」では、悲しげな歌をショスタコーヴィチの交響曲第7番《レニングラード》の第1楽章で聞こえるメロディがわざとらしく妨害し、歌を中断させている。バルトークが指揮者ドラティに語ったところによると、これは明確にショスタコーヴィチを引用したものであり、しかも当時、あまりにも盛んに演奏された《レニングラード》を揶揄する意図が込められたものであったという。(以上、バルトークや東欧の音楽に詳しい音楽学者の伊東信宏氏による。)

ドイツ軍に包囲されたレニングラード市に捧げられたショスタコーヴィチの交響曲第7番は、反ドイツを象徴し連合国の結束を高める為のものとしてアメリカ合衆国でも盛んに演奏されたのだが、自分がここまで周到に避けてきた交響曲という形式をあっさりと使用するショスタコーヴィチに対して、バルトークは相当な苛立ちを持っていたようである。これは、ショスタコーヴィチにはショスタコーヴィチの事情があったのだが、バルトークにもそんなことを忖度する必要は無かったということか。そんな背景を持ったちょっとおかしな間奏曲を経ての第5楽章。バルトークにしては珍しく明るい、光の満ちた音楽である。不思議な疾走感と勢いのまま曲は終わる。この終結部は当初はもっと短いあっさりとしたものだったのだが、あまりにも聞き映えがしない為か、初演の後にバルトークによって改訂されている。(この初稿の終結部はクーゼヴィツキーの初演ライブの録音などで聞くことが出来る。)こういったサービス精神溢れる?改訂もバルトークにしては珍しい。

しかしこの音楽に、バルトークの音楽は堕落したとかバルトークが聴衆が媚びたのだとかという声がある。果たしてそうか?難しいものを難しい形のまま提供することと、難しいものを分かりやすく親しみやすい形で提供することのどちらがより高度な技を必要とするか。無論、後者である。バルトークの創作は人生の最後において、さらにより高い次元に突入したのだと筆者には感じられるのだ。音楽はやはり極めて抽象的であるが、そこにバルトークの見た景色や聞いた音を重ね合わせる想像も、また可能であろう。その向こうにうっすらと見えてくるバルトーク。その顔は和らいだ表情を見せているかもしれない。バルトークの独特な個性と親しみやすさが幸せな一致点をみることが出来た幸せな作品が、この《管弦楽のための協奏曲》である。

三者三様の民族性、そして

レブエルタスにドヴォルザーク、そしてバルトーク。各々とも自らの民族性を音楽の中に織り込もうとした作曲家だったが、その形もやり方も、三者三様でそれぞれ大きく異なっている。ここからわかることは、クラシック音楽に民族性を織り込もうとした場合には非常に曖昧なものとならざるを得ず、そしてその評価はそれが語られる文脈によって大きく変化しうるという事実である。しかし現代の私たちは、それらに全く関わることなくその音楽を享受する自由に恵まれている。彼らがそこに込めたものは尊重する必要があるかもしれないが、実のところは、そういった民族性に全く配慮を払わなくても聞く者を感動させる力を持っているのが、これらの作品である。そういった芸術の普遍性を信じることが出来たからこそ、3人とも民族的な要素を織り込むことに躊躇することがなかったのだ。そしてそんな普遍的な芸術の力こそが、今の私たちの社会が最も必要としているものなのかもしれない。

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