ドヴォルザーク (1841~1904) 交響曲第8番 ト長調 作品88

チェコ音楽における民族性とは?

dvorak 120x14919世紀後半のボヘミア地方において、チェコ人としての民族意識をいちはやく取り入れて作曲活動をしたのがベドジルハ・スメタナ(1824~1884)。当時のボヘミア地方はオーストリアのハプスブルク家に支配されており、チェコ語も公用語としての地位を与えられていなかった時代である。《我が祖国》(1874~1879)はスメタナの民族意識が最も高い次元で結実した傑作であるが、スメタナの創作の中心は交響詩と歌劇であった。この時代、交響詩はリストが創始したばかりの極めて新しいジャンルであり、文学的な標題を持つために音楽以外の意味付けが比較的容易であった。それに比べると、基本的に純音楽としてあった交響曲というジャンルに、音楽以外の何かを込めることは非常に難しい。ドヴォルザークは1841年生まれ、スメタナよりも一世代後の作曲家であったが、ドヴォルザークが創作の中心に選んだのは交響曲であった。

交響詩も歌劇も少なくない数を手がけているが、新しいジャンルである交響詩が席巻しベートーヴェンに続く者がなかなか現れないという状況(シューベルト、メンデルスゾーン、シューマンはいずれも自らが切り開いた交響曲の新しい可能性を十分に展開しきれぬまま早くにこの世を去ってしまった)において、交響曲の作曲に手を染めるというのは非常に勇気ある行動だった。ドヴォルザークの最初の交響曲である第1番《ズロニツェの鐘》はドヴォルザーク24歳の頃の作品。作曲活動の早いうちから交響曲を完成させ、それ以降も交響曲を何曲も完成させていく。交響曲にとって最も重視されたものはハイドン、モーツァルトやベートーヴェンを規範とする論理的構築性であり、民族的情感というものは基本的に必要としていなかった。ドヴォルザークも古典的な構築性に惹かれ交響曲の作曲を志すのであるが、当時の社会を席巻していたロマン主義の潮流やスメタナの影響を無視することは難しく、またやはりチェコ人としての民族意識も持っていたこともあり、交響曲の中に民族性を織り交ぜる試みを行っている。その分かりやすい現れが、民俗舞曲の導入であった。フリアントという農民の踊りを交響曲第6番(1880)の3楽章にて使用している。このことは、ちょうど同じ頃にブルックナーがオーストリアの農民の踊りを3楽章で多く表現したことに類似している。

交響曲第7番(1885)は非常に悲劇的性格の濃い作品だが、このルーツを抑圧され続けたチェコ人の歴史に重ね合わせる見方も存在する。この春、ミュシャの『スラヴ叙事詩』を見に行かれた方も多いのではと思うが、ミュシャが描いた苦難の歴史。特に、スメタナも《我が祖国》で主要なモチーフとしたフス戦争とその敗北、そして不屈の闘志で勝利を待ち望む心性というのは、確かに交響曲第7番の性格と非常に合致している。実際、交響曲第7番にはドヴォルザークがほぼ同時期に作曲した劇音楽の為の序曲《フス教徒》(1883)の主題が登場している。もちろん、ドヴォルザークはまず論理的な構築性が十分にないと交響曲として認められないということは承知しており、そしてそれを実現させている。そのうえでの、民族性である。

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