「ドイツ的」な音楽としての交響曲
20世紀に入ると交響曲を創作の中心に据える作曲家が19世紀に比べるとぐっと少なくなる。これは新しい作曲・表現技法が発達して交響曲以外でも創作の可能性が大きく広がったことが理由としてあげられるが、作曲家が交響曲というジャンルに纏わり付く思想的・政治的なコードを嫌った為でもあった。交響曲に纏わり付く思想的・政治的なコードとは何か。前述のように交響曲は論理的な構築物でなければならなかったのだが、そのあり方そのものがまず極めて思想的なものであった。交響曲が論理的な構築物でなければならなくなったのは、ベートーヴェンの交響曲がそうだったためによる。そしてベートーヴェンがその交響曲で表現したものは一体何か。苦悩と勝利、大自然への感謝、人間の理想…交響曲は、かくも大げさなものとなってしまった。そのため、交響曲を避ける作曲家も19世紀から無論いて、交響詩の創始者であるリストや歌劇に創作の中心をおいたワーグナーなどがそうである。ワーグナーは交響曲の可能性は既にベートーヴェンで使い果たされてしまったのでベートーヴェン以降に交響曲の作曲をすることは意味がないと考えていた。そしてもう一つ。交響曲は、極めて「ドイツ的」なジャンルとされたためであった。これが交響曲に纏わり付く政治的なコードである。
ベートーヴェン以降、交響曲として成功した作品は多くがドイツ・オーストリアから生まれていた。シューベルト、メンデルスゾーン、シューマン、そしてブラームス、ブルックナーにマーラーまで。これは、ドイツと並ぶ音楽大国であるフランスやイタリアが、既にオペラを中心とする音楽の消費システムを完成させていた為に交響曲というものに重きを置かなかったことが原因の一つとして挙げられるのだが、気がつくとフランス人もイタリア人も前述のドイツ人による交響曲を大いに愛好するようになっていた。それは良いのだが、では作曲しようとなると交響曲という形式そのものが非常にドイツ的な要素を強く感じさせるものとなってしまっていた。
19世紀の後半というのはヨーロッパにおいて民族意識が非常に高まった時代であって、各地で民族意識に端を発する紛争や軋轢が発生している。そんな状況では、フランス人やイタリア人にとっては、ドイツ人が発展させた交響曲という形式を無批判に使用することに強い抵抗を感じさせるに十分なものがあったのである。実際、オーストリアの有名な批評家のハンスリックは、「ドイツ的な作曲技法」に習熟したドヴォルザークをドイツ文化の優位性を証明するものとして論じている。チェコ人でもドイツ人が発展させた技法を使えば立派な作品を作曲することが出来る、というわけだ。
だがしかし、ハンスリックはドヴォルザークの作品の中にあったチェコの民謡や民族舞踊といった要素を無視して議論を展開しているし、ハンスリックの論そのものがドイツ人の中で広くコンセンサスを得られたものでもなかった。ブラームス派とワーグナー派が激しく対立した中でブラームスを積極的に擁護したハンスリックであるが、当然のことながらワーグナーから激しい攻撃を受ける。この時代、ドイツ的な音楽は何かという議論は、まずドイツとオーストリアのどちらが優位を取るべきかという議論があり、さらに北ドイツと南ドイツのどちらが優先されるべきかという議論があった。これは当然、プロイセンとオーストリアの争い、そしてプロイセンと他のドイツ諸邦との政治的な争いが背景としてある。政治的に勝利したのは北ドイツのプロイセンであるが、「ドイツ的な音楽」の覇者はもちろんはっきりと決められるものではなかった。この当時、バイロイト祝祭劇場を完成させ勢いに乗ったワーグナーであるが、プロイセンの政治的大物であるビスマルクに資金援助を要請するが全く相手にされず、「真のドイツ音楽はドイツには存在しない」と言って絶望し、アメリカ合衆国においてこそ真のドイツ音楽を発展させることが出来るのだ、というようなことを述べている。(以上、吉田寛『ヴァーグナーの「ドイツ」 超政治とナショナル・アイデンティティのゆくえ』青弓社、2009年に詳しい。)ビスマルクから資金援助を得られたならば、ワーグナーもこんなことは言わなかったであろう。つまりは、芸術の民族性といったものは、社会や国家、そしてそれを語る人々の立場如何によっていかようにも変わり得るものなのであった。