アメリカ合衆国へ
バルトークにとって民俗音楽の研究とは決して作曲の合間に行うような片手間の活動では無く、多大なるエネルギーと時間を費やし、時には作曲よりも優先させる程のものだった。作曲家として、そして民俗音楽学者として充実するバルトーク。そんなバルトークに転機が訪れる。1930年代の後半、ドイツではナチス政権が支配を強力なものとしていき周辺のヨーロッパ諸国もその支配下に置こうとしていた。ナチス政権は保守的な芸術政策をとり、前衛的な芸術には容赦ない攻撃を加えた。その攻撃が芸術作品のみならず芸術家自身にも及ぶようになったのを見て、バルトークはヨーロッパを離れることを考えだす。この当時、ハンガリーはナチス政権の同盟国だったが独立は保っており、ナチス政権の意向によりバルトークに直ちに危険が及ぶということはなかったのだが、ヒンデミットが亡命したのを受けて、バルトークはヒンデミットが駄目ならば自分もやっていくことは出来ないだろうと考えたらしい。また、アメリカ合衆国で民俗音楽の研究が続けられる目処もついた。ナチス政権を逃れてアメリカ合衆国に渡った作曲家にはヒンデミットやシェーンベルクなど大学の作曲科の教職に就いた者も少なくなかったのだが、バルトークはそれを望まなかった。バルトークが望んだのは民俗音楽の研究である。それが叶えられると分かった時、バルトークはアメリカ合衆国に移住することを決意する。既に成長した息子はヨーロッパに残し、妻ディッタのみを連れての渡米だった。
ハンガリーを離れた時にバルトークは心の中で何らかの決意があったのだろうか。また、普通に新しい環境になかなか馴れなかったせいかもしれない。アメリカ合衆国に渡ってからしばらくはバルトークは作曲活動を行わなかった。そんな中、バルトークに悲劇が訪れる。白血病の発病である。研究活動も中断し病に伏せるバルトーク。しかし、ここでバルトークに最後の輝きの時が訪れる。金銭的な支援の意味も含め、指揮者セルゲイ・クーゼヴィツキーが大規模なオーケストラ作品の作曲をバルトークに委託する。こうして作曲されたのが《管弦楽のための協奏曲》である。1943年に作曲され初演は翌1944年2月、クーゼヴィツキーの指揮による。他にもヴァイオリン奏者ユーディ・メニューインの依頼で《無伴奏ヴァイオリン・ソナタ》(1944)、ヴィオラ奏者ウィリアム・プリムローズの依頼で《ヴィオラ協奏曲》(1945、未完)を作曲するなど、短い間に傑作が次々と誕生している。しかし、1945年9月、ニューヨークにて死去。5月にナチス政権は崩壊していたのだが、祖国ハンガリーにはついに戻ることがなかった。
《管弦楽のための協奏曲》という形式
特定の独奏楽器のためではなく、オーケストラ全体のための協奏曲という触れ込みの曲である。この形式はバロック時代の合奏協奏曲に範を取っていると言われ、実際、バルトークは J.S.バッハやスカルラッティなどのバロックの大作曲家の鍵盤曲の楽譜の校訂を手がけ、自らもピアノで演奏したりしている。だが、実際にこの作品からそういったバロック音楽の影響を聞き取ることは難しいだろう。この《管弦楽のための協奏曲》という形式はヒンデミットが1920年代に創始したと言われる。クーゼヴィツキーとバルトークのどちらのどのような意向で委託作品がこの形式となったか定かではないのだが、交響曲以外で大規模なオーケストラ作品となると、自ずとこの形式になっただろうなというのは予想出来る。なぜ交響曲は駄目だったのか?そう、それが「ドイツ的」な形式だったからだ。たとえ「ドイツ的」なものでなくても、ベートーヴェン的な要素を交響曲から排除することは不可能だった。交響曲という形式を採用すること自体、その内容がどのようなものであっても、ベートーヴェンの後継作品の一つと見做されることは避けられなかった。そこまでベートーヴェンの影響力は強かったということなのだが、では交響曲以外に大規模でかつ複雑で、作曲家が力を入れるに相応しいオーケストラ作品の形式には何があるだろうか。組曲ではいささか器が小さい。協奏曲という形式は、複雑なソナタ形式にも耐えられるが、しかし交響曲に纏わり付く政治的・思想的な重みなどはどこにも無かった。管弦楽のための協奏曲という概念が如何に画期的な発明であったか。バルトークがこの形式を選んだことは、ごく自然なことだったように筆者には思える。
と、ここまで書いた後にこの曲を練習している最中に気がついたのだが、この曲は掛け合いが多い。輪唱、カノンである。バルトークのこれはバロック音楽ではなく農村で子供が歌う遊びのようなものを想起させるが、バルトークには「合奏協奏曲→バロック音楽→対位法→輪唱」という発想がこの曲にあったのではないか。合奏協奏曲といえば誰もが想像するバロック的な音楽を避けつつ、その構造のエッセンスを取り出して全く別のものを作り上げるとは。まったく、確かにたいした業師である。