解説: ダーリの催眠療法

dahl 120pxラフマニノフが1895年に交響曲第1番を完成させ、2年後の1897年にグラズノフの指揮により初演されたものの散々な酷評をうけ、その失敗により神経衰弱になり自信喪失し、作曲ができない状態なったエピソードはよく知られている。作曲家としての復活に医師ニコライ・ダーリ(1860-1939)が寄与したということになっている。その治療の詳細と評価について私見をまじえて紹介してみたい。

ダーリはロシアの医師でモスクワ市内に開業医として働いていた。専門は神経学、精神医学、心理学とされている。モスクワ大学を1887年に卒業し、フランスのサルペトリエール病院のシャルコー教授の元で催眠療法を学んだとされる。

ジャン=マルタン・シャルコー(1825-1893)は神経学の開祖であるフランスの医師で、パリのサルペトリエール病院の医長であった。筆者の指導教官であった千葉大の平山名誉教授も同院に留学されパリの神経学をもちこんだように、その臨床と精神は脈々と日本の神経内科に受け継がれている。シャルコーはパーキンソン病を命名し、本人の名のついた神経難病もある神経学の巨星であるが、後年若い女子に嵌まったのかヒステリー患者の催眠療法のパフォーマンスに傾倒していく。その催眠療法を非ヒステリー患者に発展させている系譜のなかでフロイトなどと共にダーリを見つけることができる。

そのシャルコーの元で催眠療法を学んだというダーリは、1900年に3ヶ月の集中した治療をラフマニノフに行っているが残された証言は少ない。

義理の姉妹であるSophia Alexandrovna Satinaにより準備されたとされる伝記に最も正確な記載がされている。

第一交響曲初演のあとすっかり筆が進まなくなった彼を救おうと、いとこ、叔母と友人の内科医Grauermann氏は、内科医の友人であるダーリに彼を見せるべきだと決心する。ラフマニノフは驚くことに特に拒絶もせずその提案を素直に受け入れる。ダーリのアパートは義理の姉妹のSatinaの家と目と鼻なの先にあり、ラフマニノフは毎日のようにダーリの元に通い安楽椅子にすわって、催眠されその後暗示を受けるという治療をうける。夜ゆっくり寝て、日中の気分を明るくし、食欲が戻るようにするというもので、何よりも再び作曲できる意欲の回復をめざす。

さて当事者のラフマニノフがOskar von Riesemannに語ったところにはこのように記載されている。

親戚達はダーリになんとしても私の無気力な状態を救い再び作曲できるようにすべきだと話した。ダーリは彼らにラフマニノフにどのような種類の音楽を作曲してもらいたいかあらかじめ聞いていてその答えをもらっていた。それは私がロンドンの人々に約束したが絶望であきらめているピアノ協奏曲だと。それで私はダーリの肘掛け椅子で半睡眠状態の間、毎日毎日同じ催眠式を聞いていた、あなたは協奏曲を書き始める、いともたやすくできる、協奏曲は素晴らしいできだ・・そのやり方はいつも同じで途切れない・・・信じられないかもしれないがこの療法は本当に助けになった。夏には既に作曲をはじめ素材はまとまって新しい音楽の発想が私のなかでまわりはじめた…

さて21世紀の今は寝椅子にすわっての催眠療法などの医学は多方面から批判をうけて衰退している。19世紀の終わりに神経学と力動精神医学が屹立し誕生した時代の催眠療法の理論はほぼ否定されているといってよい。このような暗示療法が有効であったのは、まず彼が良くなりたかったこと、催眠後の暗示法は当時であってももともと軽い人に有効とされており、すなわちラフマニノフの精神状況はいわれているほど重篤でなかったのであろうと推察される。

当時のラフマニノフは作曲こそ進まないものの、ピアニストとしての仕事などは継続できており、大うつ病にみられる全人的退行はなく精神疾患としては重篤ではなさそうである。ピアニストかつ作曲家で多忙で期待も多いところに、最初の交響曲の評判が散々でやる気なくなっていたところ、ダーリと過ごした時間で、休養、十分な睡眠、アマチュアのヴィオリストで教養のある医師との会話で癒やされたと考えるのが妥当であろう。親戚達の野望に上手く乗せられ、ピアノ協奏曲を書くという具体的目標が設定されていたのが興味ぶかい。

参考文献:

1) Elger Nigels, Nikolai Dahl’s Cure –Good Luck or Good Practicing? in: The Rachmaninoff Network, 14 Oct 2015 (website).
2) Maurice Kouguell, Remembering Dr.Dahl: Hypnosis Saves Rachmaninoff. Brookside Center for Counseling and Hypnopathy (website).
3) Sergei Bertensson and Jay Leyda with the assistance of Sophia Satina, Sergei Rafmaninoff: A Lifetime in Music. Muriwai Books 2017 (Kindle).

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