亡命者の音楽
ロシア革命勃発後、レーニン率いるボルシェビキ政権を嫌って多数の文化人・芸術家がロシアから亡命したが、ラフマニノフもその中の一人であった。亡命後、ラフマニノフはアメリカ合衆国に居を構え、まず生活の糧を得るためにピアニストとして活動を展開する。ラフマニノフは優れたピアニストであり(その演奏は録音も多く残っていて、幸いにもラフマニノフの演奏様式がどんなものであったか後世の私たちは耳で確認することが出来る)、ラフマニノフのピアノ演奏は非常に高い人気を獲得したのだが、その反面、演奏家として多忙を極めたために作曲家としての活動は不十分なものとなってしまった。
亡命直後は混乱と環境の変化で創作意欲が湧かなかった為か、作曲らしいことは殆ど行っていない。作品番号が付くラフマニノフの作品は全部で45曲だが、そのうち亡命後の作品は40以降の6曲だけである。交響曲第3番の作曲は1936年、作品番号は44となる。次の作品45は1940年作曲の《交響的舞曲》。1943年、70歳の誕生日を迎える直前にラフマニノフはこの世を去る。分類上は管弦楽曲だが、規模・内容共に交響曲と同様のものを持つ《交響的舞曲》が、ラフマニノフの最後の作品となった。また、《交響的舞曲》は《交響曲第3番》と規模も曲調も近いものを持ち、この二つの曲はラフマニノフ最晩年の傑作として非常に高い完成度を誇っている。ラフマニノフの交響曲で最もポピュラーなのは第2番であるが、《交響的舞曲》と共にこの交響曲第3番も、もっと取りあげられても良い曲である。
ラフマニノフの特徴は何と言っても耽溺するような美しくロマンチックな旋律だが、交響曲第3番にもそれは事欠かない。祖国ロシアを思う望郷の念が強く表れていると言われることも多い。ラフマニノフは1917年にロシアを離れてから、一度も祖国に戻ることなくその生を終えた。この曲に溢れ出る情感は望郷の思いだろうか。
ラフマニノフはハリウッド的?
ラフマニノフの音楽はしばしばハリウッドの映画音楽に喩えられることがある。確かにラフマニノフの色彩豊かなオーケストラの響きは、現在の我々がハリウッドの映画音楽としてイメージする絢爛豪華で煌びやかな音楽と相通じるものがある。実際、ラフマニノフはハリウッド近くの高級住宅街ビバリーヒルズに住んだこともあったし、またラフマニノフがアメリカ合衆国で活動するようになった1920年代というのは、映画が無声からトーキーへ、そして白黒からカラーへという目まぐるしい革新を経ていた時期でもあった。そのような状況から考えると「ラフマニノフがハリウッドの映画音楽を作ったのだ」となりそうであるが、実際はハリウッドの映画音楽の確立にラフマニノフは殆ど、いやまったく関わっていない。ハリウッドの映画音楽を作ったのは、何と言ってもエーリヒ・コルンゴルトである。
幼き頃から作曲の才を発揮し「モーツァルトの再来」ともて囃されながらも、ユダヤ系の出自のためナチスドイツによりヨーロッパを追われアメリカに亡命してきたコルンゴルトは、映画音楽にその活動の場を見いだす。そのスコアは「ハリウッド的」な煌びやかさと豪華絢爛さに溢れつつも、ドイツ・オーストリア系のアカデミックな伝統に連なるものであった。
そもそも、当時のハリウッド、ひいてはアメリカ西海岸地区というのは、ナチスドイツから逃れた中欧の知識人達が数多く存在していた場であった。ハリウッドにも映画・演劇畑の人間が多数存在していたのだが、そんな彼らにとってロシア革命から逃れたピアニストの作曲する音楽などは、あまり興味をひくものではなかったのだろう。無論、時代が過ぎるとラフマニノフの影響も出てくるのであろうが、ハリウッド音楽の創生期に於ける状況はそのようなものであった。ラフマニノフの方も、特に映画音楽に興味を持った形跡は特に無いようである。とにかくピアニストとして多忙であったラフマニノフは、その見返りとしての高報酬もあったので、映画音楽を作曲する必要も無かったのであろう。現在ではラフマニノフの音楽は映画やテレビ、アイススケートの場でも頻繁に耳にするようになったが、それはまた別の話である。
作曲の経緯と全体の構成
亡命後は殆ど作曲活動を行わなかったラフマニノフだが、1930年代に入って作曲意欲が復活する。演奏会のオフシーズンに作曲に打ち込むために、1932年にスイスのルツェルンに別荘を設ける。そこで1935年の夏に作曲に着手。途中、演奏活動などによる中断を挟みながらも、1936年の夏に完成。交響曲第2番からおよそ20年が経とうとしていた。
初演は1936年11月、ストコフスキー指揮のフィラデルフィア管弦楽団。ラフマニノフとは何度も共演を重ねた間柄である。バッハやチャイコフスキーでは大仰な表現をすることもあったストコフスキーであったが、同時代音楽に対しては極めて真摯な姿勢で臨み、その普及に力を注いだ音楽家でもあった。
全3楽章。1番や2番は4楽章形式であったが、この3番と《交響的舞曲》は3楽章形式となる。アダージョの第2楽章の中間にスケルツォ的な役割を担わせている部分が挿入されるが、変拍子で目まぐるしい感じを与えるこの部分は、どこかプロコフィエフ的でもある。
第1楽章 レントーアレグロ・モデラート
ホルン、1本のチェロ、クラリネットによって微かな音で序奏が奏でられる。ホルンはゲシュトップという特殊奏法によって金属的な音を、チェロは高い音域で細い音を要求される。これらの混合による慣れない手触りの音色で奏でられる序奏の旋律は他の旋律の基にもなり、曲全体に統一感を与える。
序奏の静寂感は一瞬で破られ、ロマンチックで情感豊かな音楽が展開されていく。展開部の音楽は多少切迫の度を強めるが、再現部を経てコーダは静かに余韻を残してこの楽章は終わる。
第2楽章 アダージョ・マ・ノン・トロッポ
ハープの伴奏に乗ってホルンが静かに歌う。その後は、バイオリンソロによるこれもまたロマンチックなメロディ。音楽はその情感のまま盛り上がりを見せるが、スケルツォ的な役割を担う中間部に突入する。ピアノも彩りを添え、音楽が煌びやかに舞った後、静けさを取り戻し再び先程のロマンチックな情感の再現となる。一旦盛り上がった後、この楽章もまた静かに余韻を残して終わる。
第3楽章 アレグロ
その余韻を破るかのような、賑やかで華やかな導入。生気を持った明るい印象で音楽は進む。展開部ではフーガも現れる。ここで、断片的にではあるが《怒りの日》の主題が姿を見せる。グレゴリオ聖歌の《怒りの日》はベルリオーズが《幻想交響曲》で魔女の宴の場面で使って以来、死を表すモチーフとして広くて定着する。ラフマニノフはこのモチーフがひどく気に入ったらしく、作品に頻繁に登場させた。《パガニーニの主題による狂詩曲》や《交響的舞曲》でははっきりとその姿を現すのだが、《交響曲第3番》では断片的な使用に留まっている。曲は明るく力強く進むが、いわば隠された棘のように《怒りの日》モチーフが所々に潜んでいるのだ。そのモチーフに導かれ、再現部に突入。コーダはテンポを上げ、少し唐突に、しかし力強く曲全体は終結を迎える。
(中田れな)