第66回演奏会 - 2022年1月16日(日) 13:30開演 会場:習志野文化ホール・指揮:金子 建志・演目:ドヴォルザーク/謝肉祭、ヒンデミット/画家マティス、ベートーヴェン/交響曲第6番「田園」

ラフマニノフ (1873~1943) 交響曲第1番 ニ短調 作品13

モスクワ音楽院の若き天才

rachmaninov 1892 120pxセルゲイ・ラフマニノフは1873年にロシアの貴族の家に生まれた。ラフマニノフの曾祖父や祖父は音楽に造詣が深く、特に祖父アルカーディは見事なピアノの腕前を持っていたという。ロシアにピアノがもたらされたのは19世紀に入ってからのことだが、アルカーディ・ラフマニノフはロシアで最初にピアノ演奏をものにした世代の一人、ということになる。この祖父ほどではなかったが、父親もピアノを演奏した。しかしこの父親、典型的な貴族の御坊ちゃまというべきか、気前良く施しを与えたり投機に失敗したりで、貴族ラフマニノフ家の莫大な財産はこの父親の代であっという間に底をついてしまった。

ラフマニノフ家は領地を離れ、ペテルブルクのアパートで暮らすようになる。幼き頃から音楽の才能を見せ、祖父とピアノ連弾をこなしたりしていたセルゲイだったが、9歳の時、ペテルブルク音楽院に入学することとなる。抜群の才能を見せたラフマニノフは歳上の少年達に混じって飛び級で授業を受けたりもしたが、しかし、このペテルブルク音楽院では早熟の天才を受け入れる体制が整っていなかったらしく、ラフマニノフは落ちこぼれの生徒となってしまった。それを救ったのが、従兄弟であるアレクサンドル・ジロティ。ジロティもラフマニノフと同じく、祖父アルカーディから音楽の才能を受け継いだ者だった。ジロティはリストにピアノを学び、この当時、ピアニストとしてデビューしていたのだが、ジロティは自らが学んだモスクワ音楽院であれば少年ラフマニノフにも適切な指導が出来ると考え、ラフマニノフ家にセルゲイのモスクワ行きを進める。この時、ラフマニノフの両親は別居状態でセルゲイは母親が引き取っていたのだが、セルゲイをモスクワで学ばせることを決意。セルゲイはジロティも師事したピアノ教師、ニコライ・ズヴェーレフに学ぶことになる。ズヴェーレフ家に居候しての生活だった。ズヴェーレフ家には他にも沢山の音楽を学ぶ少年達が居候をしていて、ラフマニノフは彼らと共に音楽を学んでいくこととなる。この中にはアレクサンドル・スクリャービンもいて、後に二人はモスクワ音楽院でも一緒に学ぶようになる。

最初はモスクワ音楽院の初等科にいたが、ラフマニノフはすぐに才能を開花させ、モスクワに来た3年後の1888年にモスクワ音楽院本科に入学。モスクワ音楽院の教授となっていたジロティに学ぶこととなる。ラフマニノフはピアノの実技のみならず和声といった楽理などにおいても抜群の成績を修める。1889年、モスクワ音楽院での和声法の授業の際に特別試験官として立ち会ったチャイコフスキーは、和声の課題として提出されたラフマニノフの作品に非常に高い評価を与える。これはラフマニノフが本格手的作曲を志すきっかけの一つにもなったようだった。

教師達から与えられる厳しい課題も高い評価でクリアしていくラフマニノフ。(対照的に、学友スクリャービンはピアノ演奏の評価は高かったが、他の科目にはラフマニノフほどまじめに取り組まなかったので、さほど良い成績ではなかったという。)ラフマニノフは卒業を目前とした時期に、自作のピアノ協奏曲第1番の第1楽章を学内コンサートで演奏している。卒業制作はプーシキンの小説を原作としたオペラ《アレコ》。《アレコ》はボリショイ劇場での上演も決まり、ラフマニノフは作曲科とピアノ科の二つの科で最優秀を取り、モスクワ音楽院を卒業する。これが1892年のこと。(ちなみに、ピアノ科のラフマニノフに次ぐ成績優秀者の座はスクリャービンに与えられている。)モスクワ音楽院の若き天才ラフマニノフの、前途洋々とした船出であった。

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