ラフマニノフ (1873~1943) 交響曲第1番 ニ短調 作品13

精神科医ニコライ・ダーリ

この初演の失敗で、ラフマニノフは鬱状態に陥ったことも広く知られている。そして精神科医ダーリ博士の治療により回復し、ピアノ協奏曲第2番で見事カムバックを果たしたというところまでが、この広く知られる一連の逸話となる。ではこのダーリ博士とは何者なのか、そしてダーリ博士がラフマニノフに行った治療というのは、どのようなものだったのか。ラフマニノフが交響曲第1番の初演失敗後、酷いショックを受け一種の虚脱状態に陥ったのは事実のようである。作曲の筆もしばらく止まってしまっている。では、ラフマニノフはダーリ博士と出会う迄は何もしていなかったというと、これもそんなことはない。都会を離れ田舎で過ごすうちに気力が回復したのか、夏頃には依頼されていたグラズノフの交響曲第6番のピアノ編曲版を完成。交響曲第1番の初演の指揮をした、あの、グラズノフの作品である。そして秋には私設のオペラ団体の指揮者に就任している。ラフマニノフは活発な指揮活動を行い、その指揮も高い評価を受けるに至る。作曲家としての歩みは一時止まってしまうこととなったが、その分、指揮者として豊かな経験を積むことが出来たのだった。とはいえ、作曲はなかなか再開することができなかった。

このラフマニノフに、ダーリ博士のところに行ってみたらとアドバイスする者がいた。ダーリについては別項をお読み頂きたいのだが、そのダーリのもとでラフマニノフは治療を受ける。ラフマニノフはダーリのもとに通う前から既に指揮者として大活躍しており、ダーリの助けが無くても本格的な作曲活動に戻っていた可能性はある。しかし、ラフマニノフ自身はダーリに大きな感謝を感じていて、復活の証となったピアノ協奏曲第2番をダーリに献呈している。ニコライ・ダーリはロシア革命後、1925年になってレバノンに渡り、その地で没した。レバノンはロシア革命を逃れたロシア人が多くいた地の一つで、ビオラやチェロを演奏することが出来たダーリは、現地のオーケストラに参加したこともあったという。ラフマニノフの作品も演奏したことがあったのだろうか。

2回目の演奏は48年後

初演の失敗後、指揮者として活躍したラフマニノフはピアノ協奏曲第2番(1901年)で作曲家としての復帰を果たし、交響曲第2番(1907年)で交響曲の分野でも大成功をおさめる。そこから先は大作曲家ラフマニノフの生涯となるのだが、失敗に終わった交響曲第1番は初演以降、一度も演奏されずにいた。ラフマニノフは手を加えて再度演奏したいという意志をずっと持ち続けていたのだが、ラフマニノフの生前にその機会が訪れることはなかった。ラフマニノフは1943年、死去。ロシア革命を避けてアメリカ合衆国に逃れ、その地での死だった。ラフマニノフが交響曲第1番を実際に自分の耳で聞いたのは、初演の際の一度だけということになる。いや、初演の出来が散々だったことを考えると、ラフマニノフはこの曲をちゃんとした形では一度も聞くことが無かった、とも言えるかもしれない。初演の失敗後、総譜はラフマニノフが持っていたらしいが、ロシア革命を巡る混乱の際に失われてしまった可能性が高いという。ラフマニノフの自筆譜は今もって見つかっていない。

そのまま幻の作品となると思われたこの交響曲だが、1945年、第二次世界大戦も終わりを迎えようとする頃、ペテルブルクから名前を変えたレニングラード音楽院の図書館にて、初演の際に使用された一揃いのパート譜が発見される。それを受けて総譜の復元作業が開始。そして、初演から実に48年後の1945年10月17日、アレクサンドル・ガウク指揮ソビエト国立交響楽団によって、2回目の演奏が行われた。初演の失敗後、ラフマニノフはパート譜を回収することも出来ないぐらいショックを受けたのだろうが、そのことがこの場合は幸いに働いたようである。誰かがパート譜を集め、きちんと保管して図書館にしまっていた。そして、再び日の目を浴びることになる。しかし、パート譜もラフマニノフが持っていたならば、そのまま総譜とともに行方不明になって作品自体がお蔵入りになっていた可能性が高い。偶然の采配によって、私たちはこの音楽を聞くことができるのである。

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