セルゲイ・ラフマニノフ (1873~1943) 交響詩《死の島》

rachmaninovベックリンの《死の島》

ピアノ協奏曲第2番の大成功によって、交響曲第1番の初演の失敗を払拭したラフマニノフ。そして交響曲第2番の初演は喝采をもって迎えられた。幸せな家庭を築き私生活も充実して、作曲家としても円熟を迎えた頃、ラフマニノフは一枚の絵から着想を得て一編の交響詩を作曲する。それが交響詩《死の島》である。

 

 

その絵はスイス出身の画家、アルノルト・ベックリンが描いた《死の島》という絵だった。ベックリンにとって《死の島》とはお気に入りの題材だったようで、同じようなモチーフで同名の絵を5枚描いているのだが(そのうち現存するのは4枚)、ラフマニノフが目にしたのは3枚目の絵の、さらにその複製画(銅版画)だったらしい。死の島という題名の意味するところは墓場の島ということらしく、絵は小さな舟が孤島に近づいて行く様を描いている。面白いことに、ラフマニノフは後にベックリンの原画を見て色彩が思ったよりも明るいのにがっかりし、複製画より先に原画を見ていたら作曲しなかっただろうと語ったと伝えられている。確かに、ベックリンの描いた5枚の《死の島》の絵は、構図は5枚とも共通なのだが、3枚目は明るめの光を感じさせる色調で描かれている。ベックリンの絵は当時のヨーロッパで広く流行し、ヒトラーもお気に入りであったという。若き頃に画家を目指したヒトラーだったが、ベックリンのこの絵を模写したこともあったのだろうか。

指揮者、ラフマニノフ

ロシア革命による混乱を避けるため、ロシアを出国し西ヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国に移住したラフマニノフは、その地で生計を得るためにピアニストとして活躍した。幸いなことにラフマニノフが演奏するピアノの録音は数多く残されており、自作のみならず他の作曲家の作品に対してもラフマニノフがどのように解釈し演奏したかを後世の私たちは耳で聞いて確認することができる。そのイメージもあって演奏家としてのラフマニノフはまずピアニストとして活躍したと思われがちであるが、ラフマニノフの演奏家としてのキャリアの中で最も重要なものはピアニストとしての活動ではない。ラフマニノフがピアニストとして活躍するようになるのは、ロシア革命後、欧米で活躍するようになってからの話である。それでは、ラフマニノフの演奏家としてのキャリアの中心を占めたものは何か。それは指揮者としての活動であった。

1897年3月、ペテルブルクにてラフマニノフの交響曲第1番の初演が行われる。この初演は惨憺たる失敗に終わり、ラフマニノフはひどい精神的打撃を受け暫く作曲の筆が止まってしまうのだが、この作曲家としてはブランクの時期に、ラフマニノフは本格的な指揮活動を開始する。モスクワの私設歌劇場と副指揮者として一年契約を交わしたラフマニノフは、1897年10月、サン=サーンスの歌劇《サムソンとデリラ》で本格的な指揮者デビューを果たす。この公演は大成功に終わり、ラフマニノフは瞬く間に有能な若手指揮者としての評価を獲得する。多忙のためこの職は1年で辞してしまうのだが、ピアノ協奏曲第2番で作曲家として復活を果たした後、1904年秋にモスクワのボリショイ劇場の副指揮者に就任する。2年後の契約更改の際に、多忙で十分な作曲の時間が取れないという理由でこの職も辞することになるのだが、その間の活動で指揮者ラフマニノフは揺るぎない評価を獲得する。その後、作曲の時間を取るためにロシアを離れドイツのドレスデンに移住する。交響曲第2番、そして《死の島》はドレスデン時代の作品である。結局、1910年にロシアに帰国した後は、また指揮者として忙しく活躍することになるのだが、この時期においても《鐘》といった傑作が誕生している。まさに、ラフマニノフが最も充実していた時期だろう。《死の島》は、ラフマニノフの音楽活動が最も充実していた時期のちょうど真ん中の辺りで作曲されている。

指揮者として活躍しながら、その合間をぬって作曲に勤しむ。この時代、そのような人物がもう一人いる。そう、マーラーである。マーラーに比べればラフマニノフが指揮者として活躍した時期は短いが、指揮者ラフマニノフが非常に高い評価を獲得していたということは、もう少しクローズアップされても良いかもしれない。ちなみに、ラフマニノフとマーラーは一度だけ共演を果たしている。1910年1月、マーラーが指揮をするニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団の伴奏で、ラフマニノフは自作のピアノ協奏曲第3番のソリストを務めた。作曲家として指揮者として、通じるところも多い二人の間にはどんなやり取りが交わされたのだろうか。残念ながら、信頼できる資料の形ではっきりとしたものは残っていないようである。

 

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