ベックリンの《死の島》
ピアノ協奏曲第2番の大成功によって、交響曲第1番の初演の失敗を払拭したラフマニノフ。そして交響曲第2番の初演は喝采をもって迎えられた。幸せな家庭を築き私生活も充実して、作曲家としても円熟を迎えた頃、ラフマニノフは一枚の絵から着想を得て一編の交響詩を作曲する。それが交響詩《死の島》である。
ピアノ協奏曲第2番の大成功によって、交響曲第1番の初演の失敗を払拭したラフマニノフ。そして交響曲第2番の初演は喝采をもって迎えられた。幸せな家庭を築き私生活も充実して、作曲家としても円熟を迎えた頃、ラフマニノフは一枚の絵から着想を得て一編の交響詩を作曲する。それが交響詩《死の島》である。
別稿のように、ラフマニノフが霊感を受けたのはベックリンの油彩画ではなく、M.クリンガーの「死の島(ベックリンの原画による)」という銅版画だった。後に原画を見て明るい色調に驚き「これを見ていたらあの曲は書かなかっただろう」と述べたという。
ホ短調という調性は、ベートーヴェン等の独墺系先進国の交響曲には少ないが、チャイコフスキーの〈5番〉と、ドヴォルザークの〈新世界〉という先例があるので、スラヴ系交響曲の王道を選んだことになる。共に、循環主題で全4楽章を統一するというシンフォニックな構造にこだわったこの2曲が、〈運命〉のリズム主題と、〈幻想〉のイデー・フィクスを両親とする第一世代とすれば、この〈2番〉は第二世代。〈1番〉で辛酸を舐めたラフマニノフが、交響曲作家としての真価を問うべく、論理的構築性を徹底的に追究して仕上げた骨太の大作なのだが、ある時期からカットだらけの短縮版の演奏が当たり前みたいな状況が続いたせいもあって、映画音楽的なロマンティシズムのほうが全面に押し出されることになった。
セルゲイ・ラフマニノフは1873年にロシアの貴族の家に生まれた。ラフマニノフの曾祖父や祖父は音楽に造詣が深く、特に祖父アルカーディは見事なピアノの腕前を持っていたという。ロシアにピアノがもたらされたのは19世紀に入ってからのことだが、アルカーディ・ラフマニノフはロシアで最初にピアノ演奏をものにした世代の一人、ということになる。この祖父ほどではなかったが、父親もピアノを演奏した。しかしこの父親、典型的な貴族の御坊ちゃまというべきか、気前良く施しを与えたり投機に失敗したりで、貴族ラフマニノフ家の莫大な財産はこの父親の代であっという間に底をついてしまった。
ロシア革命勃発後、レーニン率いるボルシェビキ政権を嫌って多数の文化人・芸術家がロシアから亡命したが、ラフマニノフもその中の一人であった。亡命後、ラフマニノフはアメリカ合衆国に居を構え、まず生活の糧を得るためにピアニストとして活動を展開する。ラフマニノフは優れたピアニストであり(その演奏は録音も多く残っていて、幸いにもラフマニノフの演奏様式がどんなものであったか後世の私たちは耳で確認することが出来る)、ラフマニノフのピアノ演奏は非常に高い人気を獲得したのだが、その反面、演奏家として多忙を極めたために作曲家としての活動は不十分なものとなってしまった。
この交響曲の辿ることになった不幸な運命については、どんな伝記にも必ず書かれている。完成2年後の1897年(24歳)にペテルブルグで行なわれた初演は、重鎮グラズノフの指揮で行なわれたのにも関わらず大失敗。酷評の嵐は若きラフマニノフを作曲不能のノイローゼに陥らせ、精神科医の治療を受けて回復。ピアノ協奏曲の第2番の作曲で立ち直ったというのだ。
モスクワ音楽院卒業後、モスクワを中心に活動していたラフマニノフだったが、ロシア帝国の首都でありモスクワと並ぶ音楽都市だったサンクト・ペテルブルクにも活動の場を広げることする。しかしそれは、ラフマニノフにとっては苦難の始まりとなった。
ラフマニノフは大いなる意欲を持って交響曲第1番を書き上げる。1897年3月15日、この意欲作はサンクト・ペテルブルクにて初演が行われた。指揮はグラズノフ。しかし、この初演は惨憺たる失敗に終わる。
日程:2013年1月12日(土) 17:15開場 18:00開演
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日程:2018年1月13日(土) 14時開演(13:15開場)
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前売券販売所:
ラフマニノフが1895年に交響曲第1番を完成させ、2年後の1897年にグラズノフの指揮により初演されたものの散々な酷評をうけ、その失敗により神経衰弱になり自信喪失し、作曲ができない状態なったエピソードはよく知られている。作曲家としての復活に医師ニコライ・ダーリ(1860-1939)が寄与したということになっている。その治療の詳細と評価について私見をまじえて紹介してみたい。