この交響曲の辿ることになった不幸な運命については、どんな伝記にも必ず書かれている。完成2年後の1897年(24歳)にペテルブルグで行なわれた初演は、重鎮グラズノフの指揮で行なわれたのにも関わらず大失敗。酷評の嵐は若きラフマニノフを作曲不能のノイローゼに陥らせ、精神科医の治療を受けて回復。ピアノ協奏曲の第2番の作曲で立ち直ったというのだ。
以前は、アルコール中毒に近かったグラズノフがひどい指揮をしたのが失敗の一番の原因とされていたが、それに対しては、否定的な見解が主流になりつつある。
今回、初めて指揮することになって判ったのは、スコアとパート譜の不備があまりにも多いこと。これに関しては別稿に記された初演後の経緯が大きく関わってくるのだが、要点を整理しておく。
1-初演後、スコアはラフマニノフの手元に戻ったようだが、後に紛失。今日まで自筆譜は不明のまま。
2-死後、レニングラード音楽院の図書館から初演時に使用されたパート譜が発見。
3-そのパート譜からスコアが復元され、1945年10月17日、ガウクの指揮によって復活初演。
以上の経緯から、食い違いが見つかったらパート譜優先になるのだが、それを象徴するのがⅡ楽章冒頭の第2ヴァイオリンの主題。スコア ①a のリズムが3回とも[4分音符+2分音符]なのに対し、パート譜 ①b は2小節目が逆。CDも ①b で演奏しているのが殆どだ。
Ⅰ楽章でオーボエが第2主題として登場させる7/4拍子の ①c の再現に該るこの主題、音程的には「レ→ド」を3回繰り返すだけなので、記憶し難いのが欠点。人間に譬えるなら「あの…」と繰り返すだけで、中々、次の一言が言い出せないタイプのようなもの。ラフマニノフは、これに「あの…、あ…の、あの…」というリズムの長短を付けるだけで主題にしようとしたのだが、楽譜として ①a・①b のような誤記が生じ易いのが欠点。その記譜上の曖昧さが、多くの個所で混乱を招き、曲の理解を妨げている。
この寡黙な男そのものような主題で思い出すのが、ストラヴィンスキーがラフマニノフについて語った以下のエピソード。同じロシアの出身なのに二人が出逢ったのはハリウッドに移住してからのこと。「118の質問に答える」(音楽之友社・吉田秀和訳)を抄訳してみよう。
ラフマニノフの不朽の全体性は、不機嫌さにある。彼は身の丈6フィート半の仏頂面をした男だった。彼との話、というより彼はいつも黙っていたから、私と細君との会話になるのだけれど。
ラフマニノフ夫人「毎朝、お起きになると、先ず何をなさいますの?」
ストラヴィンスキー「15分ぐらい体操をします。それから逆立ちをし、シャワーを浴びます」
夫人「ねえラフマニノフ、これでも貴方はシャワーが怖いなんておっしゃるの?それに体操されるそうよ。お聞きになった?あなたは散歩さえろくろくなさらないなんて、恥ずかしくありません?」
ラフマニノフ「(無言)…」
今回、この寡黙な男を思わせる ① をラフマニノフ自身として捉えてみた。ただし、その記譜の不徹底が、初演失敗をもたらした重大因子なのは明らかなので、全楽章を通じてイデー・フィクスとしての輪郭を明確にし、標題音楽的な物語としての方向性を強調してみたい。